また、2018年5月には、アイドルグループ防弾少年団のアルバム「LOVE YOURSELF 轉 ‘Tear’」が、アメリカのビルボードアルバムチャートの「ビル ボード200」で1位、メインシングルチャートの「ホット100」で10位を記録 し、新しい歴史を作りました。
このような現象の背景には、長い歴史の中で、丁寧で根気強い民族情緒と 徹底した職人精神を発揮して先祖が創造してきた、伝統文化の優れた芸術性 と精巧さがあります。
三国時代の古墳壁画と遺物から感じられる独創的な芸術的感性は、統一新 羅、高麗、朝鮮時代を経てさらに豊かになり深みを増しました。このような 芸術性が、今日の韓国の国民や芸術家たちに連綿と受け継がれています。
古くから伝わる韓国の文化芸術遺産のうち、1990年代以降にユネスコの 保護対象として登録されたものが少なくありません。2019年現在、世界遺 産、世界記録遺産、人類無形文化遺産などに登録されているものは、全部で 49件です。
ユネスコ世界遺産
世界遺産
昌徳宮(チャンドックン)
ソウル市鐘路区(チョンノグ)臥龍洞(ワリョンドン)に位置する昌徳宮は、朝鮮 時代(1392~1910)の昔の宮殿の様子がうかがえる代表的な遺跡です。1405年 に別宮として完成しましたが、正宮だった景福宮(キョンボックン)が1592年 に日本の侵略によって全焼したため、1867年に再建されるまで、朝鮮の王た ちは昌徳宮を正宮として使用しました。1997年に、ユネスコ世界遺産に登録 されました。
城郭施設の機能が合理的で実用的な構造になっており、通常の城郭とは異 なり、軍事的な防御機能と商業的機能を兼ね備えた文化財として高く評価さ れています。
実学者である丁若鏞(チョン・ヤギョン)が、滑車の原理を利用して開発し た挙重機(動く滑車を利用し、低いところの石を積むのに使用)や、ろくろ(固 定滑車を利用し、クレーンのように石を高いところへ移動するのに使用)など の科学的な道具を利用して完成させました。
一方、装飾を省き、構造的な比例によって完全な美しさを表現した釈迦塔 は、韓国仏教石塔の原型とされ、以降似たような作品が多く作られました。
仏国寺の大雄殿に上がる青雲橋(チョンウンギョ)と白雲橋(ペグンギョ) は、造形の美しさだけでなく、極楽浄土に入るには水を渡り雲を通り過ぎな ければならないという宗教的な概念も象徴しています。
武石人(ムソギン)、王陵を守る石像
朝鮮王陵の墓は石板で保護され、周りは欄干で 囲まれており、その前には優しさを象徴する羊 と激しさを象徴する虎の形をした石の彫刻が置 かれています。王陵の正面には、魂が出てきて 食べて遊ぶ長方形の石台があり、左右には遠く からも見えるように八角形の高い石柱が立てら れています。
動物の彫刻の前には、火が灯せるように石 燈が立てられ、東・西・北側の3面には塀が積 まれています。石燈の左右には1組か2組の石で できた文官像が向かい合い、その後ろには馬の 彫刻像が置かれました。文官像の下段には、武 官(軍人)像が同じように立っています。
ソウルの中心部から南東に25km離れた場所に位置し、平均高度が標高 480m以上の険しい山勢を利用して防御力を最大化しました。その周囲は 約12.3kmに達します。山の上に都市が形成され、朝鮮時代の記録では、 約4,000人程度が南漢山城に居住しており、緊急時に王室と軍事指揮部が避難 できる臨時首都としての役割を果たしました。さらに都城の性質を備えるため、 1711年、粛宗(スクチョン)王の時代に、行宮をはじめとする宗廟と社稷壇(サ ジクダン)が造成されました。
また南漢山城は、16世紀から18世紀まで続いた国際戦争を通じて、東ア ジアの韓国(朝鮮)、日本(安土桃山時代)、中国(明と清)の間で広範囲な相互交 流が行われた結果でもあります。
この期間、西洋の火砲の導入による武器体系の変化が、南漢山城の城郭築 城にも多くの影響を及ぼしました。7世紀から19世紀にかけて、城郭築城術が 時代によって変化した過程が、今も保存されています。
百済歴史遺跡地区
百済は、紀元前18年から西暦660年までの約700年間に存在した韓半島の古代 国家の一つです。百済歴史遺跡地区は、公州市(コンジュシ)、扶余郡(プヨグ ン)、益山市(イクサンシ)など3市郡8ヶ所の文化遺産で構成されています。
詳しい登録地域を見ると、忠清南道(チュンチョンナムド)公州市は公山 城(コンサンソン)、宋山里(ソンサンリ)古墳群の2ヶ所、忠清南道扶余郡は官 北里(クァンブクリ)遺跡と扶蘇山城(プソサンソン)、陵山里(ヌンサンリ)古墳 群、定林寺址(チョンリムサジ)、扶余羅城(プヨナソン)の4ヶ所、全羅北道(チ ョルラブクド)益山市は王宮里(ワングンリ)遺跡、弥勒寺址(ミルクサ)の2ヶ所 です。
百済歴史遺跡地区は、5~7世紀において、韓国・中国・日本の古代東アジ ア王国間の交流や、その結果として発展した建築技術と仏教の拡大を示す考 古学的遺跡です。また、首都の立地、仏教寺院や古墳群、建築物や石塔など からは、韓国の古代王国である百済の文化・宗教・芸術美をうかがい知るこ とができます。韓国・中国・日本、東アジアの古代王国の相互交流の様子を よく表しており、百済の歴史と文化を証明しています。
学びやすく、書くのも簡単なハングルが頒布されて初めて、下層民や女性 も文字を身につけて使用することができるようになりました。ハングルは、 頒布当時は全部で28個の文字でしたが、現在は24個だけが使われています。 一方、ユネスコは1989年「世宗大王識字賞」を制定し、全世界の知識率を向 上させるために努力した個人や団体を選定し、毎年表彰しています。
全2,077冊で、ソウル大学校の奎章閣(キュジャンガク)図書館に保管されて います。実録の編纂は、主に王が他界した後、次の王の即位初期に行われ、 士官が随時作成しておいた草稿を基本資料として活用しました。
王妃と世子(王子)の冊封や婚礼をはじめ、王室の葬儀、王陵の造成や改 葬などの祭礼が主な内容ですが、王が模範を示すために直接農業を行う親耕 や、宮殿の建物の新築や補修などの場合にも儀軌が編纂されました。正祖(チ ョンジョ)大王の時に、華城城郭の築城と水原への行幸を記録した詳しい儀軌 が作成されたのは、そのうちの一つです。
儀軌は、王朝実録と同様に書庫に保管され、朝鮮王朝初期の儀軌は1592 年の壬辰倭乱の時にほとんどが焼失しました。しかし幸いにして、その後製 作された全3,895巻に及ぶ膨大な儀軌は残っています。
この儀軌は、1866年にフランス軍が搬出し、パリ国立図書館に保管され ていましたが、韓国政府と学界の継続的な返還要請によって、2011年に永久 賃貸方式ですべて返還されました。
宗廟祭礼とともに、儀式を荘厳に行うために演奏される器楽と歌・舞を宗 廟祭礼楽と言います。打楽器や弦楽器など様々な楽器で演奏される音楽や、 文舞(ムンム)と武舞(ムム)の舞を通じて、重厚感と華やかさを同時に感じられ ます。宗廟祭礼と宗廟祭礼楽は、儀式と音楽が調和し、500年以上にわたって ほぼ原型のまま保存されてきた総合芸術だと言えます。
村を守ってくれる大関嶺(テグァルリョン)の山神へ祭祀を執り行います。村の平 安と農業の繁栄、家の太平を願いながら、地域住民が調和を成して団結する協同 の精神を垣間見ることができます。
端午祭は旧暦4月5日、神に捧げるお酒を造ることから始まります。これを 「神酒造り(神酒謹醸)」と言い、お酒は天上と地上の魂をつなぐ食べ物、すな わち神の象徴だと信じられていました。
この他に、官奴が踊りと身振りで遊ぶ韓国唯一の無言仮面劇である官奴仮 面劇をはじめ、ブランコやシルム(相撲)、農楽コンテスト、菖蒲洗髪、スリチ トク(ヤマボクチの若葉を混ぜてこしきで蒸した餅)がふるまわれるなど、様々 なイベントが開催されます。その中でも菖蒲洗髪は、女性たちが菖蒲を煮出 した水で髪を洗って艶を出す風習で、端午の日に無病長寿を願い、邪気を払 うという意味があります。
鼓やチャング、鉦、どら、らっぱ、太平簫を演奏しながら歌い踊ります。 草取りや、田の草取り、田植えなどのつらい仕事をする時に、疲れを紛らわ せて仕事の能率を上げ、協調心を呼び起こそうという目的で始まりました。
伝統文化の一つであり、生きている人と亡くなった人の両方が、仏の真理 を悟り煩悩と苦しみから逃れる境地に至らせるという目的で、単なる公演と いうよりも、大衆が参加する壮大な仏教儀式としての価値があります。
テッキョンの特徴は、手足や体の動きが筋肉の動きと一致するので柔軟で、 相手と自然に交えることができる武術だという点です。また、音楽的で舞踊的な リズムを持つ芸術性の濃い武芸でもあり、攻撃よりは守備に重点を置いて、足を よく動かします。試合方法は、相手に向かって片方の足を踏み出す待接の状態か ら始まり、手足を使って相手を倒したり、顔を足で蹴ったりすると勝ちです。
韓国の綱渡りは、外国の綱渡りとは異なり、綱を渡るだけの技術にとどま らず、歌や漫談をまじえることで、綱を渡る人と観客が一緒に楽しむ場を作る という特徴があります。
鷹狩り
野生の鷹を調教し、キジやウサギを捕まえる狩り遊びです。韓半島では数千年 前に始まり、高麗時代(918~1392)に最も盛んとなり、地域的には北側でより流 行しました。時期的には旧暦の10月から冬を越えて、春の農作業が始まる前ま で行われました。
鷹の足首には革ひもを結び、尾には飼いならした所有者の名前を記した角 と鈴をつけました。鈴は、キジを捕まえて地に下りてきた鷹の位置を把握する ためのものです。2010年に、モンゴル、フランス、チェコ、スペイン、シリア などの全11ヶ国と共同でユネスコ世界無形遺産に登録されました。
「アリラン」の楽譜と重要性を初めて記録に残した人物は、アメリカ人 のホーマー・ハルバート(HomerB.Hulbert、1863~1949)です。彼が、月刊誌 「Korean Repository」1896年2月号に寄稿した「韓国の声楽」というタイトル の記事では、「 アリラン」が次のように紹介されました。
韓国のキムジャン文化
キムジャンは、冬の間に食べる大量のキムチを作る作業のことで、韓国人にと って欠かせない越冬準備です。キムチは、韓国を代表する食べ物の一つで、韓 国人の食卓には主なおかずとして常に登場します。そのためキムジャンは韓国人の越冬準備の中でも最も重要な作業だと言えます。
季節ごとにすべき作業があり、その過程は1年かけて行われます。春には、 各家庭でアミの塩辛やカタクチイワシの塩辛など、様々な海産物のチョッカル (塩辛)を準備します。
夏には天日塩を用意し、夏の終わりには唐辛子を乾燥させ、粉にしておきま す。晩秋と初冬を迎え、本格的なキムジャンの時期になると、家族単位や村など のコミュニティごとに一緒に集まり、準備した材料を使ってキムチを漬けます。
キムジャン文化は、コミュニティが一緒に集まって大量のキムチを漬ける ことで、個人主義の雰囲気が強い現代社会において社会のメンバー間の連帯感 を強める重要なきっかけとなり、韓国人としてのアイデンティティを保ってく れます。また、何世代にもわたり受け継がれてきた、韓国人の分かち合い文化 を垣間見ることができます。
韓国人の独特な食文化でありながら、コミュニティとの連帯感や分かち合 いの精神まで含むキムジャン文化は、2013年12月5日にユネスコ人類無形遺産 に登録されました。