短編小説はまるで書きかけの…
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すべてが1か0、黑か白の2進法の世界に存在すると想定してみよう。微妙な違いも、グレーゾーンもない。1から50までの数字がすべて「0」に納まる。51から100までの数字はすべて「1」に納まる。選択はただ2つで、その中間はない。

金作家の短編小説『霧津紀行』は、1964年10月に教養雑誌『思想界』に初めて収録された。その後、2012年に図書出版アジアが発刊した韓国語の原文と英語翻訳が一緒に載せられた短編小説シリーズ「バイリンガルエディション・韓国現代文学」に含まれた
では、1と0の2進法を人間のように複雑で、繊細で、微妙なものに適用してみよう。人間感情のスペクトルを二つの箱に入れてみよう。あらゆる性格、奇癖、すべての恋人たち、サイコパス、そのすべてを2つの箱に入れるのだ。世界を2つに分けてみよう。たった2つに。世界を1と0に、「私の」国と「あなたの」国に分けてみよう。このような区別は現代社会にも適用できる。新しい世界と古い世界、都市と田舎、親と子供、霧と日向、平和な世界と苦痛に満ちた世界に分けられるのだ。
一見、右手と左手、男性と女性、昼と夜のように単純なものに見えるかもしれない。しかし、世界を2つの範疇でのみ判断して分類すると、結局は怠惰な思考に終わってしまう。「存在」という円柱を「選択」という四角の穴に押し入れることができないように、このような区別は危険ともいえる。クラカタウ(インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間にある火山島)の溶岩のように、トラウマにより抑圧された感情のように、別れた後に流す涙のように、私たちは沸きあがり、たちまち爆発する。多くを見過ぎ、十分に見れないという理由で自分の目を潰して荒谷を彷徨うリア王になってしまう。
それは存在という重い二分法的負担であり、作家・金承鈺(キム・スンオク)が短編小説『霧津紀行』(1964)と『ソウル1964年冬』(1965)で語る内容でもある。この2つの作品を教養雑誌『思想界』に発表した当時、金承鈺は22、3歳の青年だった。彼が存在していたソウルは混乱状態に陥っていた。1961年、軍事政権が発足した。国は特定産業にのみ経済支援をしようとした。田畑はセメントと鉄鋼に生まれ変わりつつあり、若手の新人作家がソウルの文学界を風靡していた。
金承鈺の短編小説2編からは1960年代半ばの韓国社会が垣間見える。1本はある男が故郷に帰って過ごす1週間を描く。もう1編はソウルあちこちの居酒屋を転々する真冬の夜の話だ。2作品とも主人公の人生をちらりと覗き見ることのできる、短編小説という小さい窓としてはぴったりの単純なストーリーだ。金承鈺が開け閉めするこの窓(短編小説)は、一瞬ではあるが読者たちにその世界を覗かせてくれるが、そこから見えるのはただの故郷への旅や汚い居酒屋で過ごした一晩だけではない。その窓から見えるのは「存在」という二分法的負担である。我々人間の存在は、そう単純にある範疇に分類できるものではない。

日本語に翻訳された金作家の『ソウル1964年冬』
歴史的時代
1960年代のソウルは激動の時期だった。複雑な背景が絡み合った同族同士の戦争という悲劇は10年前にすでに終わっていた。10年以上続く赤い恐怖が韓国を覆っていた。民族主義の概念は反共産主義と密接に関係し、韓国社会で声を出せる公共の声は極めて限られていた。韓国はまだまだ貧しく、今我々の知るような豊かな国ではなかった。1920年代から1940年代にかけて蓄積した富はすべて失われてしまった。戦争と腐敗した政治が作った悲劇だった。
頑固で腐敗した、恐怖に捕らわれ政府を強力に統制していた老人(李承晩元大統領)は1960年4月、デモ隊により追い出された。デモ隊を率いたのはほどんどが学生と教授たちだった。1961年に、背が低く強靭な小作農出身の将校(朴正煕元大統領)がその座についた。1961年から1963年にかけて彼の国家再建最高会議が国政を司った。1962年には韓国初の経済開発5カ年計画が始まり、1963年にその軍部の独裁者は軍服を脱いで背広を着た「大統領」になった。1965年6月に韓日基本条約が、翌年には在韓駐屯軍地位協定が締結された。
話をソウルに戻すと、当時の高校生と大学生の数は1940年代、1950年代以降4倍も増加した。ほとんどの大学、中でも名門と呼ばれる大学はすべてソウルに位置していた。全国の父親は息子をソウルに送り高等教育を受けさせるのが夢だった。もちろん教育において娘はまったく考慮の対象ではなかった。若い男子学生たちが親の干渉と小言から解放され、狭苦しい下宿で生活した。
大学では多くの学生を望んでいなかった。教授も同じだった。大学は学生たちで溢れ、すでに飽和状態になっていて、教授1人が担当する学生は多過ぎた。教授たちは学生に負けないくらい頻繁に授業を休んだ。学生たちはすでに高校で奴隷みたいに勉強していた。職業に就くための教育ならもう十分だし、大学では怠けてもよかった。にもかかわらず、わざわざ授業料を払って大学、とくに人文学部や文学専攻を希望した。大学院に進む理由はもちろん仕事がなかったからだ。1960年代初・中盤までは、ソウルはまだ小さい都市で、皆が顔見知りのような小さな街だった。
だが、その学生たちと教授たちがデモをして暴君を追い出した。そして下層階級に小作農出身の、口数が少なく数字で確認できる結果はたくさん残した新しい独裁者の政権強化に対抗しなければならなかったのも、彼ら学生たちと教授たちだった。
1950年代末から1960年代半ばのソウルで、政治はエリートたちの専有物として、大学教育を受けた有識者の男性という少数の集団から急浮上した。当時の有識者男性は韓国社会で特別な役割を果たした。ただ、それは現代の韓国社会を築いた、ブルーカラー労働者らの凄まじい勢いが持つ威厳や勇気とは違う。それはドライバーや溶接器の代わりに本を武器とする人たちの一種の「虚栄の入り混じった有識者の視点」ないし少なくとも社会の声を代弁すると考えられる人たちの「視点」だった。
この若くて怠惰な有識者男性たちは、寄り集まっては自ら自分に資格を与えて「大事な事」について議論した。当時のソウルには生き生きした知性の雰囲気が漂っていた。1950年代有数の教養雑誌『思想界』と1960年代に1万8千部を発行した『創作と批評』は当時の一流有職者のメディアだった。韓国政府が『思想界』の発行を再三中断させたことからして、素晴らしい雑誌だったことが計り知れる。在韓米国大使館の元外交官のグレゴリー・ヘンダーソン(Gregory Henderson, 1922-1988)が話したように、李承晩元大統領が退いて朴正煕元大統領がクーデタを起こす前の1960年張勉総理在任当時の韓国にはジャーナリストの数が10万に至り、そのほとんどがソウルで活動した。誰もが読み、誰もが書くような時代だった。
彼らが集まるのは主に「茶房」だった。茶房とは居酒屋から売春宿、クラブ、カフェなどを網羅するもので、そこでエリートたちは政治界のうわさから文学思潮、当時韓国社会に起きた事件事故や現象、音楽と本と酒と売春婦についてまですべてを共有した。大抵同じ学校や同じ授業を受講する政治学科と哲学科学生同士で秘密の集いを結成した。無職の男子学生が政治的にも文学的にも成長する中、そして「茶房」と小さいグループとして集っていたこの集団は、すぐにでも爆発する準備ができていた。
1960年3月、新学期が始まるとソウル大学文理大学の仏文学科に新入生が入ってきた。19歳の金承鈺だった。彼の政治的な筆力はすでに成熟していて、鋭い機知の効いた文章を書いていた。単語一つ、文章一つで自分が生きる時代を表現する準備ができていた。実際、在学当時の彼はソウル経済新聞で漫画を描き、1962年には作家としてその名を知られるようになった初めての短編を韓国日報から発刊した。
1964年、大学卒業を前にした金承鈺は短編小説『霧津紀行』を発表する。読者たちは彼の短編小説から巨大な二分法を語る短編を共有すべく『思想界』を買った。新しく発足した警察国家は徐々に社会統制を強化し、産業化は始まったばかりで、日本とは平和を成し、もはや20世紀最後となる激動の時期が始まる出発点に立っていた。
存在の二分法
ある人は韓国人に生まれて生きていくのがかなりの重荷だという。実際、出生という偶然に投げ込まれることがなかったら、自ら韓国人の人生を選択しただろうかは疑問だ。ここ韓国社会では新しい命が生まれるとメディアから、親、学校、軍隊から韓国人になる方法を教わる。韓国というこの社会で生きていく方法を学ぶ。20世紀後半の進んだ文化、民族、人種が混ざったこのグローバルな植民支配から独立した社会、限りなく現代的な20世紀の宗教、民族主義は「韓国人」になることをより容易にしてくれる。あなたは虹に色を一つ追加する程度の存在だ。一方、あなたは「韓国人のアイデンティティを保ちながら同時にグローバルな人間になる方法は何か」という質問にも直面する。韓服を着ていれば韓国人なのか。ハンバーガーを食べると韓国人ではないのか。
ジャマールッディーン・アフガーニー(Jamal ad-Din al-Afghani)、梁啓超、ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)といった哲学者たちは皆同じ質問を投げかけていた。「西欧により、西欧のために作られた世界で、どうやって自分のアイデンティティを維持すべきなのか」「社会とは何で、多くの社会から成り立つ世界でこの社会はどのような位置づけを持っているのか」。自分が韓国人であることに直面する方法、韓国という社会を考える視点は金承鈺の短編小説の中核だ。自分は誰か、自分は何か、自分がここにいる理由は何なのか。金承鈺はしばらく休むために故郷へ旅立つ主人公から、冬の夜に新しくできた友達と居酒屋を転々する主人公から、その質問に答えようとする。短編小説から我々人間の人生を覗きながら。
韓国の映画や文学には繰り返し登場する二分法の世界がある。都市と田舎、陸地と島、開発と立ち遅れ、現代と近代、現在と過去など。これらの二分法は自分の故郷と他人の故郷の知名度を比較するとき、または自分が卒業した小学校と他人の小学校、自分が卒業した高校と他人の高校、自分の軍隊時代と他人の軍隊時代、これらすべてを比較するときにも顕在化する。現代の消費文化が定着してからは自分と他人のバッグ、自分のスイス製の時計と他人のスイス製の時計、自分の輸入車と他人の輸入車、自分が大手企業に就職した時期と他人が大手企業に就職した時期、自分の夫の上司と他人の夫の上司、自分の子供が入学する小学校と他人の子供が入学する小学校からも現れる。この循環はずっと続く。社会でも続く。1964年、1965年に金承鈺が開いた短編小説という窓からその現象を自分で確認することもできる。韓国人として生きていくことの重荷も依然として残る。
作家としての金承鈺
第2共和国体制の発足当時、金承鈺は19歳だった。現代における初めてのクーデターが起きたときは20歳だった。『霧津紀行』を執筆したときは23歳。作家としてデビューしたのはその2年前の1962年だった。『ソウル1964年冬』を書いたときは24歳だった。

金承鈺は1941年生まれで1960年代に発表した短編小説で高い人気を博した。彼の作品は今日の読者からも親しまれる
華麗に咲き誇り、すぐに萎れてしまうヒヤシンスのように、金承鈺(1941-)は21歳から25歳、つまり1962年から1966年までに10本以上の短編小説、エッセイ、シナリオ、中篇小説などを執筆した。金承鈺の作品はソウルの日刊紙や文芸誌に発表された当時も人気が高く、今日の読者たちからも親しまれる。彼は1960年代初・中盤、傲慢な以前の独裁者に飽きつかれ、首を締め付ける新しい独裁者に怯える作家群の筆頭に立っていた。彼は急激な都市化とそれにより急成長する新しい都市生活の現実を書いた。また都市と田舎の間で、そして現在と過去の間で人間がどのように馴染んでいくのかについて書いた。
文章は彼の力だった。代表作となった2編の短編小説から彼は時代精神を捉えた。『霧津紀行』は知られたものだけでも2つのバージョンの英文翻訳版があり、それぞれ54ページ、1万単語にも満たない長さだ。
1967年の映画『霧』は、短編小説『霧津紀行』映画化した作品だ。金承鈺自らがシナリオ作業に参加したもの。映画『霧』は韓国映像資料院が「韓国古典映画劇場」プロジェクトの一つとして運営するユーチューブチャンネル「KoreanFilm」から全編を英語字幕付きで鑑賞できる。
彼の作品のうち英語版が出版されたのは『霧津紀行』と『ソウル1964年冬』2作のみ。図書出版アジアでは「バイリンガルエディション・韓国現代文学(Bilingual Edition Modern Korean Literature)」と題した赤いカバーの薄い短編小説シリーズを発刊しているが、韓国語原文と英文翻訳がセットになっている。『霧津紀行』は2012年にケビン・オルーク(Kevin O’Rourke)が翻訳した。このシリーズに収録された短編小説 75編は「分断」「愛と恋愛」「タブーと欲望」などのテーマがそれぞれセットとなっており、『霧津紀行』は「産業化」シリーズの1つとして紹介された。

2015年にラウトレッジから発刊された「Land of Exile」シリーズには金承鈺の 『ソウル1964年冬』が第5章に収録されている
『ソウル1964年冬』はオンライン書店のアマゾンで『Land of Exile: Contemporary Korean Fiction—Expanded Edition』の電子本を購入すれば鑑賞できる。2015年にラウトレッジから出版され、マーシャルR.ピル(Marshall R. Pihl)、ブルース・フルトン(Bruce Fulton)、ジュチャン・フルトン(Ju-Chan Fulton)が翻訳および編集者として参加した。この小説集には1948~2004年に韓国で発刊された短編小説が載せられた。合計16編の短編小説が収録され、『ソウル1964年冬』は第5章にある。
結局、短編小説から我々が見られるのはこの世の刹那に過ぎない。チェーホフもヘミングウェイも金承鈺も、短編小説は登場人物の人生を理解するための小さい窓を開くだけで、その窓はすぐ閉じられてしまう。私たちはその窓から犬を連れて歩く婦人を見る。釣りに行く老人と少年を見る。故郷へ旅立つ男を見る。ディケンズ、ドストエフスキー、デュマのような深みはない。窓が開いて、また閉じられる。我々は生まれて、死んでいく。これこそ究極の二分法である。
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…まるで書きかけの文章のようだ。
コリアネット グレゴリー・イーヴス記者
翻訳:イム・ユジン
写真:図書出版アジア、ナムウィキ、ラウトレッジ
gceaves@korea.kr