大韓民国臨時政府の樹立から107周年を迎え、ソウル・中浪(チュンナン)区にある忘憂(マンウ)歴史文化公園の中浪忘憂空間で、企画展示「大韓民国臨時政府 記憶の箱」が開催されている=忘憂歴史文化公園
[イ・ジヘ]
1919年、中国・上海で胎動した大韓民国臨時政府。祖国独立のため、死闘が繰り広げられた激動の27年間を駆け抜けたその精神が、今、忘憂(マンウ)歴史文化公園に春の訪れを告げる。
同園で開催中の企画展「大韓民国臨時政府 記憶の箱」では、韓国の歴史上、初の民主共和政が「光復(独立)」へと突き進んだ苦難の道のりを、立体的な展示で浮き彫りにしている。
臨時政府は、当時、日本帝国の厳しい監視の目にさらされ、財政難にあえぐ中でも、屈することなく27年間にわたり歩み続けた。写真は、1919年から1945年にかけて8回にわたり庁舎を移転した臨時政府の軌跡と沿革が記された展示物=ソウル、イ・ジヘ
展示では、1919年4月11日に樹立された大韓民国臨時政府が1945年の光復(独立)に至るまでの足跡を、多彩な視覚資料で再構成している。
臨時政府が上海に拠点を置いた背景には、フランスの租界(外国人の居住および治外法権が認められている地域)という特殊な環境があった。日本帝国の厳しい監視や弾圧を逃れ、独立運動を展開できる戦略的要衝と判断されたからだ。また、貿易が盛んに行われていた国際都市の上海は、朝鮮の独立への意志を世界に広く訴える上でも最適の場所だったといえる。
しかし、1932年にユン・ボンギル義士が、上海にある虹口(ホンコウ)公園(現在の魯迅公園)で日本軍の首脳部を狙って爆弾を投げたことを機に、日本帝国の独立運動への取り締まりは一段と厳しくなった。その後、1937年の日中戦争勃発により、臨時政府は安全確保と財政難という窮地に立たされた。1945年に重慶へ到達するまで、8の都市を転々としながら必死に独立運動を展開し続けた。
展示は、独立に向けた苦難の道のりが一目で分かるように工夫が凝らされている。なお、現在も上海・杭州(こうしゅう)・重慶には、臨時政府記念館が保存されている。
1945年、大韓民国臨時政府の要員らの帰国を歓迎するため、ソウルの和信(ファシン)百貨店前に建てられた凱旋門の模型=ソウル、イ・ジョンウ
展示会場には、1945年の光復以降、ソウルの和信(ファシン)百貨店前に建てられた「凱旋門」の模型が観覧客を迎える。
同年111月23日と12月2日、臨時政府の要員らはついに祖国の地を踏んだ。しかし、国際法上で政府として承認されていなかったため、その帰国は「私人」としての立場を余儀なくされた。帰国宣言も入国事実も伏せられていたため、金浦(キンポ)飛行場に帰国宣言も入国事実も伏せられていたため、歓迎する人々の姿は見られなかった。
しかし、同年の12月17日、ソウル運動場(現在の東大門デザインプラザ)に約15万人が集まり、臨時政府要員の帰還を熱烈に歓迎した。展示された凱旋門は、その歴史的な「凱旋」の瞬間を象徴している。
写真は、忘憂歴史文化公園にあるユ・グァンスン烈士の墓(左)、彼女の遺言が記された碑石(右)=ソウル、イ・ジョンウ
忘憂歴史文化公園は、まさに「生きた歴史の現場」だ。1933年に忘憂里共同墓地として整備された公園には、独立運動家や近現代の文化芸術家などが眠っている。
展示会場の外にある散策路に沿って歩くと、10代の少女でありながら、3・1独立運動を率いたユ・グァンスン烈士の墓所へと至る。「爪がはがれ、耳と鼻が切り落とされ、手足が折れる苦痛には耐えられても、国を失った苦しみだけは耐えられません。国に捧げる命がただ一つしかないこと、それが唯一の無念である」。道の傍らにある碑石に刻まれた彼女の遺言は、今も行き交う人々の胸を深く打つ。
忘憂歴史文化公園は今、歴史を学ぶ児童・生徒や、四季の景観を楽しむ市民が交う憩いの場へと変貌を遂げている。約100年前、先烈らが切望した「自由な春」は、穏やかな時が流れるこの場所で、今まさに美しい花を咲かせている。本企画展は5月17日まで開催されている。
忘憂歴史文化公園のスカイウォーク=中浪区庁
jihlee08@korea.kr