韓半島の南の海に面した全羅南道(チョンラナムド)高興(コフン)。高興でもさらに最南端に位置する小さな島、小鹿島(ソロクト)。かつては、外部の者は入ることもできず入ろうともしなかった、ハンセン病患者が集まり暮らしていた島だった。
ハンセン病は早くから完治が可能となり、今や小鹿島には橋も架けられ誰もが行き来できるようになった。その背景には、たくさんの人々の看護と努力があった。
1962年、高興小鹿島に2人の外国人看護士が到着した。オーストリアのインスブルックで看護大学を卒業したマリアンヌ・ストガーとマーガレット・ピサレックは、医療ボランティアとしてこの地に訪れた。もちろん、余生を小鹿島で送ろうとの決心の下に訪れたわけではなかった。

1970年にベルギーのダミアン財団の医療スタッフと撮った記念撮影。後列の左がマーガレット・ピサレック、右がマリアンヌ・ストガー。1962年に高興小鹿島へ訪れてから40年余りをハンセン病患者の看護に尽くした彼女らは、小鹿島の人々に生きる天使と呼ばれている
しかし、6000人の患者と助けを求める200人の子供たちを前に、彼女らにとって当初の契約はもはや何でもなかった。毎朝5時に起きて、一日中休むことなく患者の面倒を見た。患者と一緒に食事をしたり、素手で触れた。当時は、医療スタッフですら患者との接触を避け、治療を躊躇うほどだった。
ハンセン病に対する誤解を一つひとつ正すのはもちろん、薬品や救護物資も手に入れては人々に配った。故郷オーストリアの知人に頼んで薬を手に入れ、栄養失調の子供たちのために栄養剤と粉ミルクも入手した。海外から医療スタッフを招き手術を行い、物理治療器を導入し患者のリハビリを手助けした。患者である親から隔離された子供たちのための保育施設も建てた。服を買うお金がなかったため、直接服を作って着せたりもした。
このような献身と努力によって、ハンセン病患者数は3000人余りまで減った。共にボランティアに参加していたスタッフは1971年に故郷に帰ったが、2人は小鹿島に残った。このような彼女らの努力が知られたことで、韓国の医療従事者も手助けをし始めた。送られてきた感謝状や功労牌はほとんど送り返した。やむをえず受け取った賞金などは完治後に小鹿島を離れる人々を支援するのに充てた。
時が流れ、一時は6000人にまで上った患者数は、600人程度にまで減少した。20代だった彼女らは、いつの間にか海辺に住む田舎のお婆さんになっていた。故郷の家族たちは、彼女たちが生きているうちには帰ってこないだろうと考えていた。

小鹿島でハンセン病患者の子供の面倒をみたマーガレット・ピサレック
2005年11月、家族の心配とは裏腹にピサレックとストガーはオーストリアの家族のもとへ戻った。長い歳月を共にした人々と送別会ぐらいはしてもよさそうなものだが、ある日の明け方に2人は静かに小鹿島を後にした。荷物は43年前に持ってきた、すっかりくたびれた手持ちカバン一つだけだった。
残していったのは1通の短い手紙だけだった。
「歳をとり、ろくに働けなくなって周りの皆さんに迷惑をかけることになる前にこの地を離れるべきだと同僚たちによく話していましたが、まさにその言葉を実践する時が来たと思います。外国人であるにもかかわらず皆さんからいただいた愛と尊敬に感謝し、私たちの至らぬ点でご迷惑をお掛けした方々にお詫び申し上げます」
別れを惜しむであろう人々のために静かに去った2人の思いやりに、小鹿島の住民らはしばらくの間、別れの悲しみを隠せずに仕事もやめて祈りを捧げた。

2人はメディアへの露出を避けていたため、写真もほとんど残っていない。故キム・スファン枢機卿が小鹿島を訪れた際の歓迎式でのマーガレット・ピサレック
それから11年。高興郡はこの度、ピサレットとストガーの2人をノーベル平和賞の候補者に推薦する計画を明らかにした。一方で、5月17日の国立小鹿島病院100周年を記念し、2人の生涯をあつかったドキュメンタリーも制作される。社宅と遺品は登録文化財として指定し、記念館を設立する計画だ。小鹿島病院100周年記念式に合わせて、ストガーが11年ぶりに小鹿島を訪れるという。ピサレックは健康上の問題で参加することができなくなった。
「善良で謙遜な人であれ」。2人が過ごした小鹿島の社宅には今も残っているこの一文は、彼女らの日頃からの信念だった。名言を壁に飾るのは簡単だが、それを実践するのは難しい。数十年の献身と信念を身をもって実践した2人。今でも小鹿島や高興郡の人々が彼女たちを忘れずにいるのは、そのためだろう。

「善良で謙遜な人であれ」。知人に書いてもらったという、2人の日頃からの信念とも言えるこの一文は、今も2人が過ごした社宅に残っている
コリアネット チャン・ヨジョン記者
写真:高興郡庁
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