ひと

2015.01.20

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古くから韓国には「馬は済州島に、人は漢陽(ソウル)に送る」という言葉がある。
人は教育の環境が良いソウルに住むべきで、馬は放牧に最も適した済州の野原で育てるのが一番良いという意味だ。この言葉からもわかるように、一昔前は、朝鮮半島南端の島、済州島の教育環境はあまり良くなかった。

済州島の極貧家庭に生まれた男の子がいた。小学校に行くには、険しい山道を2時間以上歩いて行かなければならなかった。おもちゃや遊び場もろくになかった。広大な漢拏山(ハンラサン)の麓が遊び場だった。遊び疲れて草原に寝転ぶと、雲ひとつない澄み渡った青空が見えた。その空を飛ぶ飛行機を眺めながら、少年はパイロットになりたいと思った。

少年は歌が好きだった。生まれつきの美声は周辺を感嘆させた。小学校の学芸会は彼の独壇場だった。それでも声楽家になることは考えすらできなかった。苦しい家計のせいで、学校に通うのさえ容易ではなかったからだ。

済州中学校を卒業後、家計が苦しかったため済州商業高校夜間部に進学した。昼間は中学校の使用人、書店の店員として働き、夜は学校に通った。就職を目指す商業学校だったが、なんとなく大学に行きたいという気持ちがあり、大学入学試験を受けた。希望する大学、学科に行けるほどの成績ではなかった。成績に合わせて選択したのが社会学科だった。

韓国の多くの若者がそうであるように、彼は大学を休学し軍に入隊した。同じ年頃の済州島の若者たちは、ほとんどが自分の出身地で服務したが、彼は海の向こうの内陸部、なじみのない江原道(カンウォンド)華川(ファチョン)の陸軍27師団に入隊した。

3年近くの兵役を終えて故郷に帰ってきた。復学を控えていた頃、周りの人から音楽大学に行くことを勧められることが多くなった。才能をこのまま埋もれさせてしまうのはもったいないと。到底行けるような状況ではないと首を振ったが、音大進学を勧める声はさらに強くなった。1985年、25歳にして済州大学校師範大学音楽教育科に入学した。6、7年遅い入門だった。いや、十年以上出遅れた。

韓国で音楽を勉強する学生は、ほとんどが幼稚園に入る前からピアノやバイオリンなど楽器のレッスンを受け、芸術系の中学・高校を経て音大に進学する。彼は、最低12年の小・中・高校の音楽学習課程をスキップし、声楽の世界に足を踏み入れた。

困難はあったが、彼は師範大学を卒業し、公立高校の音楽教師の辞令が出た。最低63歳まで定年が保証される安定的な職業だった。しかし、彼は、教師の道ではなく、競争の舞台を選んだ。1992年、32歳という遅い年齢で声楽の本場、イタリア・ローマに向かった。コネもつてもなしに、チャレンジ精神で困難に立ち向かった。学業を続けるために、長期間観光ガイドの仕事をしたこともある。紆余曲折の末、2006年に大邱(テグ)啓明(ケミョン)大学音楽大学の教授になった。一流大学を出た音楽家も採用されるのは難しいとされる「針の穴」を通ったのである。身一つで苦しい環境を乗り越え成功を収めた人、それは、バリトン歌手として活動しながら音楽家の卵を指導するキム・スンチョル教授だ。彼に会って、今の彼をつくり上げた人生の軌跡について聞いた。

유년시절 성악가가 되리라 상상조차 못했지만 음악을 계기로 운명이 바뀌었다고 말하는 바리톤 김승철 교수.

幼年時代は声楽家になることなど想像すらできなかったが、音楽がきっかけになって運命が変わったと話すキム・スンチョル教授(バリトン)


先生に会う前に「セウォル(歳月)」という歌を聞いた。歌詞の内容が先生の過去の人生を語っているようだった。

(夢があるのかと聞かれると、私は空を見る
雲ひとつが浮び、周りいっぱいに風が吹く
振り返ってみると、はるか長い道のり、夢見ていた幼少時代の日々が
凧糸とともに近づいてくると、私の目には涙が溜まる

あ~あ~、凧上げをしていたね、あの空高く夢を育てていたね
世界の大きさと同じくらい、私には夢があった
愛も人生の意味も夢を育ててきた人生の意味も
時の流れとともに近づいてくると、私の目には涙が溜まる)

歌うたびに自分の話のように思えてくる。歌えば歌うほど歌詞に共感を覚える。「セウォル(歳月)」という曲は、作曲家のイ・ヨソプ氏が作った曲だが、有名になる前にメロディーだけ書いてある楽譜を見て、歌が気に入ったので伴奏を付けてみた。実は、この曲はイタリア・ローマで私が最初に歌った意味のある歌でもある。反応がかなり良かった。有名になり始めてからは、楽譜を見たいという要求も多かった。韓国に帰国した後も、「歌曲の夕べ」の催しで歌ったところ、好評を得た。今では、自分の代表曲のようになっている。

「あの空高く夢を育てていた」といった歌詞に共感を覚える。子どもの頃の夢とは。

子どもの頃には歌の夢は一度も見たことがない。貧しかったので音楽の勉強をすることになるとは、想像もしなかった。漢拏山の中腹を駆け回って遊び、芝生に寝転がってよく空を眺めた。空を飛ぶジェット機を見ながら空軍パイロットになりたいと思ったりもした。いろいろな家庭の事情で、到底実現できなかった。現実の状況に合わせて済州商業高校夜間部に進学し、中学の使用人として働き、書店でアルバイトもした。書店で働くと勉強したり本を読んだりできると思ったが、見当違いだった。埠頭に行って本を受け取り、包装し、書店を掃除しながら慌ただしい時間を過ごした。

音楽を始めたきっかけとは。

1981年に大学入試の成績に合わせて国立済州大学社会学科に進学し、休学して軍に入隊した。ところが、除隊以降、人生が変わった。済州ソンアン教会で出会ったチョ・ヨンレ牧師とピアノの伴奏者が私の歌声を聞き、音楽の勉強をしてみることを勧めた。軽い気持ちで受け入れたが、すでに大学入試が60日しか残っていない時点だった。一日のほとんどの時間を図書館で過ごし、勉強に没頭した。除隊してすぐ、夜を明かしながら勉強をしたら、免疫力が大幅に落ち、急性肝炎を患って20日ほど病院の世話になる羽目になった。兵役中に父は亡くなり、母が一人で苦労しながら4男1女を育てていたため、病院代を払うのが大問題だった。そのとき、運命のように現れたのが同じ教会に行っていたアマチュア声楽家で、神経精神科専門医のユ・スンヒョン博士だった。当時、ユさんは、クラシックに関する資料やアルバムをたくさん持っていた。ユさんは、治療だけでなく、後に音楽のレッスンもしてくれた。私の人生に大きな影響を与えた方だ。その方に出会ってから多くの分野に目覚めた。

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바리톤 김승철 교수가 25세의 늦은 나이에 음악입문, 이탈리아 유학 생활 등 오늘날에 이르기까지 인생역정을 말하고 있다.

キム・スンチョル教授(バリトン)が25歳の遅い年齢で音楽に入門、イタリア留学生活など今日に至るまでの人生のストーリーを語っている


実技試験では西洋歌曲の歌詞を発音のとおりにハングルで表記して丸暗記し、紆余曲折の末、1985年に済州大学校師範大学音楽教育科の4人を選抜する声楽専攻課程に合格した。しかし、入学した後がもっと問題だった。専門的な音楽の授業が行われるわけだが、私にはまったく知識がなかった。声楽の基本である視唱、聴音はもちろんのこと、ピアノも弾けなかった。できることが何もなかった。結局、1年休学することを決めた。休学期間中に基本技を身につけた後、勉強を再開し、卒業することができた。

卒業を目前にしていた頃、城南(ソンナム)、安養(アニャン)、富川(プチョン)合唱団の合同公演のオーディションに合格し、ソロのベースを演じることになった。済州大学出身である私が比重の大きい役割を演じることになり、みんなが驚いた。公演を一カ月後に控えていた頃、卒業と同時に京畿道(キョンギド)チョンゴク高校への辞令が出た。音楽の先生になれる良い機会だった。幸せな悩みが始まった。合唱団の団員も、先生になるのも良かったが、悩んだ末、最終的に音楽教師になることを決めた。

教会で出会った今の妻と当時も付き合っていたが、妻は入試前から海外に留学させてくれるということを口癖のように話していた。辞令を受け、チョンゴク高校にいる時だった。当時は、海外の資料を入手できる方法が少なかったが、妻はどこかからたくさんの資料を手に入れ、イタリア語の勉強を始めていた。結局、2年後に学校をやめ、イタリアに向かった。

イタリアでの生活もかなり厳しかったと予想される。

それこそ「無謀な挑戦」だった。妻は、イタリアに来てすぐ韓国料理を売っているソウル食堂に就職した。一日中皿洗いをし、汚水で汚れた服を着てお腹に炎症ができるほど環境は劣悪だった。お互いだけを頼って生活した。そんな中、上の子を妊娠した。体が弱ったせいか妊娠初期から出産まで、つわりがひどくて苦労した。苦労して生んだ上の娘は、私にそっくりで、今、中央大学演劇映画科4年生だ。ミュージカルに興味があり、勉強している。

芸術界は世界が狭く、牽制もひどかったはず。世界有数の大学で勉強した人も多いなかで、教授になれたのはなぜだと思うか。

信仰者として、神様が導いて下さったと、いつも感謝している。現実的に考えると、イタリア・ローマは学歴や出身背景、コンクール入賞歴に関係なく、私は何が得意か、これまでどんな経験をしたかにもっと関心を示した。準備ができていればステージに立つチャンスが与えられるところだった。

最初は、イタリアには5年だけ滞在する予定だったが、留学期間が長くなったため、韓国人観光客を案内するガイドのバイトを始めた。仕事の傍ら、移動するときなど、暇があれば勉強をした。昼間は働き、夜はオペラのスコアを暗記する「昼耕夜読」の日々だった。留学期間中にコゼンツァ国立音楽院、ローマARAMアカデミアなどを次々と修了した。

1997年末にアジア通貨危機で観光客が大幅に減少し、生活はさらに厳しくなった。仕方なく、コンクールに挑戦し始めた。大小のコンクールで20個の賞を受賞した。おそらく、生活費を稼がなければならないという切実さがあったため、相対的にほかの演奏者に比べて集中できたのだろう。小さな電子炊飯器と米、肉を持ち歩く、それこそ「コンクールツアー」だった。

それ以来、いくつかのマネージメント会社から連絡がくるようになった。彼らは自分の目で直接確認した場合や知人から得た信頼性の高い情報に基づいてのみ動く。ちょうどその頃、オペラ界の巨匠であるジュゼッペ・タデイ(Giuseppe Taddei、1916~2010)先生の下で学ぶことになった。私の生活が苦しいのを知っていた先生は、無料でレッスンをしてくれた。韓国では想像もできないことだ。その時から、ヴェローナ野外劇場などでの本格的な活動が始まった。

김승철 교수는 의기소침해 있는 제자들이 자신을 통해 희망을 발견했으면 하는 바람을 갖고 있다.

キム・スンチョル教授は、意気消沈している弟子たちに自分を通じて希望を見つけてほしいと考えている


イタリアでの活動が韓国に知られ、2001年に国立オペラ団で初演したヴェルディ逝去100周年記念公演で、主人公シモン・ボッカネグラ(Simon Boccanegra)役を演じることになった。3人が交互に主人公を演じることになっていたが、開幕公演をすることになっていた最初の俳優が1幕終了後、のどの状態が急に悪くなり、ステージを降りた。客席から見ていた私が代わりに投入された。急いで着替え、扮装をし、舞台に上がった。最初の俳優に比べて相対的に太くて重量感のある私の声が聴衆に受け入れられたようだった。留学生活以降の出来事はどれも奇跡の連続だった。

2001年のヴェローナ公演をきっかけに声楽家ビザを取得したが、そのビザは契約書に明示された期間だけ滞在できる。作品ごとにせいぜい2カ月ほどの滞在を認めている。その時からし烈な人生が始まった。一つの作品が終われば、すぐに次の仕事を見つけるといった生活が約2年間続いた。おかげで、活動を熱心にするきっかけとなった。しかし、そんな生活が苦になり、2004年に帰国した。

2004年に韓国に戻り、「ナブッコ」「ラ・ボエーム」「イル・トロヴァトーレ」など良い作品に参加することができた。漢陽(ハニャン)大学で1年間招聘講師として教えたこともある。そうしているうちに大邱の啓明大学で教授を採用するとの広告があり、志願した。学歴や経歴の優れた志願者が多く、大して期待はしなかったが、1次書類審査に合格した。2次の実技試験を受けに行ったら、20人余りの名門大学出身者が来ていた。私を見て、「済州大学出身者がどうやって書類審査に合格したのか」と、不思議に思う様子だった。結果的に私が最終合格者となり、2006年3月から教授としての活動を開始した。

歌を通じて観客に伝えたいメッセージとは。

ステージに立つと照明は暗いが、観客の顔はよく見える。観客と目を合わせて会話するように歌おうと心がけている。できるだけ作曲家、作詞家の意図を伝えようとしている。声楽家は声も重要だが、目を通してもコミュニケーションすることができると信じている。観客と交感しながら幸福感を感じる。

オペラの場合、もちろんメロディーと音の美しさを通じて共感することができると信じるが、それでもやはり外国語であるため、歌詞の伝達やコミュニケーションの面では断絶が存在する。それを克服するためにしている工夫とは。

交響楽団、管弦楽曲の特徴は、歌詞がないことだ。その延長線上でオペラを理解しようとしている。言葉の中にあるニュアンス、顔の表情、声の感じから褒め言葉と悪口を区別できるように、音楽には喜怒哀楽の感情を十分に盛ることができると信じている。感情をうまく伝えるための表現力を身につけようと努力しているが、決して容易なことではない。

一番お気に入りの作品とは。

1999年にヨーロッパの舞台でデビューを果たした。フランスのディジョン(Dijon)劇場で出演した「ナブッコ」が最も記憶に残る。しかし、役割への没入や共感という面では、シモン・ボッカネグラ役が一番気に入っている。彼のキャラクターと人間としての悩みに大きく共感した。

성악가는 절대 마이크를 들어서는 안된다는 믿음과 관객들과 눈을 맞춰가는 소통이 필요하다고 역설하는 바리톤 김승철 교수.

声楽家は絶対にマイクを使ってはならないという信念と、観客と目線を合わせていくコミュニケーションが必要と強調するキム・スンチョル教授(バリトン)


クラシック市場が縮小傾向にある。これを克服し、聴衆とのコミュニケーションを図るため「クロスオーバー」を選択する音楽家が増えているが、そのような試みをしてみたことは?

音楽に境界はないと思う。クラシック市場が萎縮しているのではなく、他のジャンルが拡大しているのだと思う。クラシックは、良い舞台とオーケストラが必要なため、どうしても大衆化が難しいジャンルであることは認める。しかし、私たちも大衆に近づくための努力をしなければならないのも事実だ。そういった意味で、クロスオーバーは観客とのコミュニケーションのために必要な面があると思う。過度に流行だけを追うのでなければ、多様なジャンルの融合による調和が重要だ。常に心を開き、交感する必要がある。

しかし、原則は必要だ。私は個人的に「声楽家は絶対にマイクを手にしない」という信念を持って生きてきた。マイクがなくても会場の最も遠い所まで届く声を出さなければならないという信念をもとに、常に研究している。

あなたにとって音楽とは。

私の人生を根こそぎ変えた運命のチャンスを与えてくれたのが音楽だと思う。漢拏山の中山間地域の済州月坪洞(ウォルピョンドン)に住んでいた頃は、小学校に通うために漢拏山の中腹を4時間以上往復した。牧場の草原に横たわって空を見上げ、自然の中で暮らした。米飯は年に数回しか味わうことができなかった。雑穀とジャガイモで延命するしかない貧しい日常だった。幼い頃の私には、今のような生活は想像もできないものだった。音楽を始める前は、自分に自信を持てなかった。音楽は私の人生を変えてくれた。音楽で私の運命が180度変わった。音楽は私の運命であり、人生である。

今後の夢は。


教授と声楽家という2つの職業を持っている。健康に歌を歌いたい。弟子たちの「ロールモデル」になりたい。学生たちは意気消沈しているように見える。私を見て希望を見つけてほしい。

記事:コリアネット ウィ・テックァン、イ・スンア記者
写真:コリアネット チョン・ハン記者
whan23@korea.kr