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【文=岡本美砂】
韓国ソウルの龍山(ヨンサン)区にある「国立中央博物館」。収蔵点数42万点のうち、常設展示館には12044点の収蔵品が展示されています。(韓国の国立中央博物館ホームページより)中でも2021年11月にオープンした2体の「半跏思惟像」ためだけの空間「思惟の部屋」は、大きな話題を呼びました。
有光教一(ありみつきょういち、1907-2011)は、韓国初の国立博物館の開館や、慶尚北道(キョンサンブクド)・慶州(キョンジュ)の発掘調査で大きな功績を残した考古学者で、植民地時代から光復後の過酷で困難を極めた時代、考古学という概念のなかった韓半島で古蹟調査と文化財保護の中心となって活動したことから「朝鮮考古学のパイオニア」と言われている人物です。
有光教一(1946年5月撮影、左)、国立中央博物館に展示されている半跏思惟像=『私の朝鮮考古学75年』、KOREA.net DB
有光は1907年11月10日、山口県豊浦郡長府村(現、下関市)に生まれました。1928年京都帝国大学文学部史学科入学。翌年、当時日本で唯一開設されていた考古学専攻に進学し、31年3月に卒業します。大学在籍の三年半、朝鮮の考古学事情に精通した濱田耕作と梅原末治から指導を受けたことが朝鮮考古学に傾倒するきっかけとなったといいます。
1931年4月、京都帝国大学大学院に入学するとともに考古学研究室に勤務しますが、同年8月に濱田の斡旋により、設立間もない朝鮮古蹟研究会助手として韓半島に赴くことになります。
9月には慶州勤務の朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、慶州皇南里82・83号墳で最初の発掘調査を行いました。有光は2年間、金仁問(キム・インムン)墓碑、忠孝洞(チュンヒョドン)古墳群、慶州南山の仏蹟、皇吾里(ファンオリ)16・54号墳、路西里(ノソリ)215番地古墳などの調査・整理作業にあたります。
1933年1月に京城(キョンソン、当時のソウル)の総督府博物館勤務指示を受け3月にソウルに転出した後は、韓半島各地での調査のほか、遺跡遺物の文化財指定に関する準備作業、博物館の展示などを担当するようになりました。1941年6月には藤田亮策の後を受け、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長として戦時下の博物館運営管理を担うことになります。
当時の朝鮮総督府博物館は、①博物館の経営、②朝鮮各地で発見される埋蔵文化財の処理、③古蹟および古建築物の修理保存、④朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令による指定などの業務を約10名の館員で対応していました。
1946年2月 旧朝鮮総督府博物館事務所と関係者。中央が金館長、右端が有光教一=『私の朝鮮考古学75年』
戦況が悪化すると、朝鮮総督府の協力が得られない中、館員4人1組で手持ち、列車輸送による収蔵品の扶余(プヨ)・慶州分館疎開を行いました。結果、学術上重要視される1000点の陳列品を両分館に疎開させることができたといいます。その中には、冒頭にご紹介した、後に国宝第78号に指定される、「金銅弥勒半跏思惟像」(国立中央博物館所蔵)も含まれていました。
博物館無用論や、博物館の存続は戦争遂行の障害とまで公言する人物もいる中、有光は博物館の建物が転用されないよう、本館を閉鎖し、残存する重要所蔵品の倉庫としました。しかし、追い打ちをかけるように不要の官庁は京城から地方に分散せよという命令が出て、いよいよ土壇場という時、8月15日を迎えます。
「敗戦のショックは大きかったが、正直なところ、安堵の方がもっと大きかった。博物館は助かった。人も物も助かったのだと私はほっとした」。(『私の朝鮮考古学75年』有光教一著より)
有光が金載元(キム・ジェウォン、1909-1990)と出会ったのは、日本敗戦直後の1945年8月17日のことでした。博物館収蔵品接収の任務を負った金博士は、1909年生まれ。1929年ドイツに留学して考古学と教育学を学び、後に初代「国立博物館」の館長に就任、祖国の文化財を守り、世界に広めることに尽力した人物です。有光とは、その後45年に渡り、家族ぐるみで親しく付き合う間柄となります。
米軍政庁統治下、朝鮮総督府博物館は1945年9月21日に30年の歴史を閉じ、日本人官史のほとんどが罷免され、博物館に所属する日本人で残留を命じられたのは、責任者である有光ただ一人でした。
10月から博物館の開館準備をするよう指示された有光は、金載元博士を補佐して疎開品の回収や国立博物館への引継ぎと再開館準備に奔走します。毎朝7時半から日没まで働き詰めでしたが、有光氏はこう言ったそうです。
「わが生涯で最も満ち足りた日々であった」
そして12月3日、旧総督府庁舎を利用した韓国初の国立博物館が開館しました。博物館の晴れの日に、日本人が顔を出すべきではないと、有光は式典には出席しませんでした。有光はこう記しています。
「12月3日(月)。目覚むれば外は一面の銀世界。景福宮後苑の雪景色をこれほど美しいと思ったことがあろうか。(中略)出席しなかったが、胸の中では誰よりも開館の日を悦んでいると自負できた」
博物館の再開館を果たし、帰国の準備をしていた矢先、運命の歯車が再び大きく回り始めます。博物館運営と発掘調査指導のため、米軍政庁文教部顧問として残留を余儀なくされたのです。博物館や古蹟調査の経験がない新規採用の館員の教育は、一朝一夕にできるものではなく、先に帰国させた4人の子どもと病身の妻の安否もわからないままでした。
壺杅塚から出土された青銅器(左)、当時の発掘現場=国立中央博物館
有光は混乱下にあった民間所有文化財の散逸拡散防止に腐心します。中には京城大学の横山将三郎教授(後に愛知大学教授)のように、20年に渡り蒐集した石器時代の土器や石器、軍用トラック2台分を直接寄贈した例もあり、「横山コレクション」は、現在も国立中央博物館に保管されています。
1946年3月、遺跡に臨んで考古学的発掘調査の方法を指導する具体的な相談があった際、有光はかねて意中にあった「慶州路西里140号墳」後の「壺杅塚や銀鈴塚」を推します。5月3日から国立博物館メンバーと初めて挑んだ発掘では、14日に高句麗第19代王である好太(ホて)王の銘が鋳出された青銅椀が出土し、朝鮮考古学史上画期的な発掘となりました。高句麗内で作られたものが新羅の王都にもたらされ、新羅式の墓に副葬品として埋蔵されたことが伺える重大な発見でした。
6月に帰国した有光は、10月にG・H・Q九州地区軍政司令部顧問(民間教育課文化財担当)、また1949年10月に福岡県教育委員会事務局嘱託となり九州各県の文化財調査を実施、1950年3月に京都大学講師に任命され、同年9月にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校東洋語学部講師として渡米します。帰国後の1952年12月に京都大学文学部助教授に就任してから、梅原考古資料(朝鮮之部)の整理などによって、新石器時代から青銅器時代を中心に、韓半島各時代の幅広い遺跡遺物について調査研究を精力的に進めます。1956年8月に京都大学文学博士学位を授与され、1957年3月京都大学文学部教授就任、1971年3月に京都大学を定年退官します。
1973年6月に奈良県立橿原考古学研究所副所長に迎えられ、1980年11月に同研究所所長就任(1984年3月まで)、また1989年11月には創設者である鄭詔文(チョ・ジョムン1918-1989)たっての希望により高麗美術館研究所所長となり、以降亡くなるまでの二十二年間、同研究所所長を務めました。
一般に朝鮮考古学者として知られる有光ですが、戦前の韓半島における総督府博物館の維持管理から戦後の国立博物館の成立に至る博物館業務、大学退官後の橿原考古学研究所所長・副所長、長年に渡る高麗美術館研究所所長として、様々な文化財の保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された博物館人でもありました。
自身の半生を回顧した『私の朝鮮考古学75年』は、1部に自身の回顧録、2部は恩師をはじめとする、20世紀に活躍した朝鮮考古学関係者の略歴を紹介する構成で、ここにも博物館人らしい一面が伺えます。本書を上梓したのは99歳の時。結びの「『私の朝鮮考古学75年』のすべてが現代史である」という言葉に、激動の一世紀の証人としての心情が表れています。2011年有光教一は103歳でその生涯を終えました。日韓の考古学研究に大きな足跡を残して。
*この記事は、日本のKOREA.net名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。
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