名誉記者団

2022.11.21

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[東京=岡本美砂(日本)]


日本で生まれたインスタントラーメンが海を渡り、韓国で生産が始まったのは、日韓国交が結ばれる前の1963年のこと。韓国初のインスタントラーメン「三養ラーメン」は、全仲潤(チョン・チュンユン 1919-2014)と奥井清澄(おくいきよずみ 1922-1973)、二人の存在なくして誕生しなかったかもしれません。

朝鮮戦争中、ソウルから南下して戦禍を逃れた全一家。戦後、ソウルに戻った全仲潤は、南大門市場の路地に人が大勢群がっているのを目にします。それは、米兵の食べ残しを粥にした5ウォンの「残飯粥」を求める人の列でした。

「韓国の食糧事情を何とかしたい」、そう思った全は日本のインスタントラーメンに着目します。貿易仲介会社を通じて、製麺機メーカーをいくつか廻りますが、いずれも予想を超える高い価格と煩雑な手続きを提示されるばかりか、何よりインスタントラーメンの製造工程で使用する機械が、別々のメーカーで製造されており、ライン全体を組み立てるのはラーメン製造会社であることを日本に来て初めて知り愕然とします。

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明星食品の社長、奥井清澄=明星食品ホームページ


ラーメン製造大手の中には取り次いでさえくれない会社もある中、上田麺機の上田社長から紹介されたのが、明星食品の社長、奥井清澄でした。もともと乾麺製造を手掛けていた明星は、1960年に『明星味付きラーメン』を発売し、即席ラーメン界に参入。そして、1962年にスープの粉末を麺とは別に添付する方式を開発します。チキンラーメンが麺自体に味付けをしていたのに対して、スープ粉末を別にすることで、さまざまな味のバリエーションが可能となり、シェアを大きく伸ばしていました。

事業計画の前に、韓国の食糧事情について説明した全は「戦争前には日本に輸出するほど収穫されていた米が半分も生産できなくなり、一日三食も満足にとれないのです。今、韓国人の平均寿命は55歳くらい。長生きするのは病気予防や治療の進歩もありますが、食糧事情も大きな影響を及ぼしているはずです」。

奥井が販売価格について尋ねると、日本のラーメン(当時一袋35円)よりずっと安い価格設定にしたいといいます。採算ラインに乗るまで時間がかかりそうだと述べた奥井に対し、全は真っすぐ目を見ながら訴えました。


「いや、会社の利益云々ではないのです。今、韓国人の国民所得は年間100ドルにもならず、フィリピンの半分にも満たない世界最貧国の一つに転落してしまいました。そのような状況で誰もが腹いっぱい食べられるようにするには、その位の値段にしないと無理なんです。私はこれで金儲けをしようとは思っていません。このことは、奥井社長にどうしてもわかってもらいたいんです」。

その日の夕方、何人かの役員を集めて奥井は自分の考えを伝えます。「これはインスタントラーメンという商品の国際化を促す第一歩と思えば、日本の業界にとっても決して悪いことではないと思う。昔、乾麺の乾燥装置を公開したみたいにね。明星を立ち上げる前に始めた協和商会が掲げていたのは『社会的に有用な経済活動を期さん』という信念だった。全社長に教えてもらったのは、目先のことに振り回されるのではなく、百年、二百年先にも語り伝えられるようなことを考えるってことだった。今度の協力事業が、明星の社員や家族たちが将来まで誇りに思えるようなことだとしたら、どうだろう?」「小牧さん、三養食品の全社長に、嵐山工場で研修を受けてもらおうと思っているんだ。社長自らラインの流れを把握していなければ、製造過程で問題が出た時、きちんと対応できないだろうからね。しばらく面倒をみてもらえないかな?」

翌日、全は再び奥井の元を訪れます。会社と個人の方針は別と考えなくてはならないことはわかっていても、どこかで全は奥井を信じていました。


「工場で生産するのに1ラインでは採算が取れないから、2ライン設置しましょう。機械一式、全て含めて1,000万円、今のレートにして27,000ドルで購入してください。これは、こちらの麺機会社が明星食品に納入している価格と同じです。生産ができるまでの技術は、明星が責任を持って指導します。それは無償で提供します」。にこやかに、そう奥井は言いました。
全は信じられない思いで「2ラインで27,000ドル? 技術料は無料? ではロイヤリティは?」と聞き返します。


「それも要りません。朝鮮戦争はお国の人たちに深い苦しみと取り返しのつかない爪痕を残しました。ところが、日本は朝鮮特需により、戦後の苦しい経済状況から抜け出すことができたのです。その恩返しの意味でも、これくらいのことはしなければならないでしょう。全社長、ここから新しい未来を共に作りましょう」。全は思わず立ち上がり、奥井に握手を求めました。


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商品を積み込む三養食品トラック=三養食品


嵐山で10日間の研修が始まりました。「昨年6月にスープ別添の商品に切り替わってから注文が殺到するようになって、東京の工場では需要がまかなえないから、生産拠点をこちらに移したんですよ。10月にはラインが全部で8つになり、日産28万食生産できます。年内には更に4ライン増設の予定です」。工場ができれば、新たな雇用も生まれる。小牧工場長の説明を聞き、全は食糧事情の改善以外にも、新事業は様々な社会的効果を及ぼすことに改めて気づかされるとともに、合理的で徹底的な品質管理は、韓国でも確実に実践しなければならないと強く感じます。ここで、全は製造技術を一から学びましたが、最後まで企業秘密として教えてもらえなかったことがひとつありました。

1か月近い滞在を終えて、羽田空港から帰国の途に就こうとした全のもとに、奥井の秘書だと名乗る人物が息を切らせて駆け寄り封筒を渡しました。封筒の中には、奥井のメモと共に、門外不出だったスープの各種成分の配合比率等のデータが詳細に記されたノートが入っていました。メモには「我々の出会いを喜びたいという意味で、ささやかな贈り物を差し上げます。スープの配合表です。これを知るのは私の他にも数人の関係者しかいません。どうか、お国で今回の経験を生かし、私たちと同じ貧しい庶民のお腹を満たす、良い製品を作って下さい」と記されてありました。


左は、明星食品から提供された包装パックを使用した最初の「三養ラーメン」。明星食品との技術提携を示す文字が見える。右は、現在販売されている「三養ラーメン」=三養食品


こうして、1963年9月15日、韓国初のインスタントラーメン「三養ラーメン」が誕生します。価格は10ウォン。奥井は技術提携後も何度となく韓国を訪れ、その行方を見守っていましたが、1973年50歳で帰らぬ人となります。一方韓国で「ラーメン界のゴッドファーザー」と呼ばれた全は、2014年94歳で世を去りました。


現在、世界で年間1000億食が消費されるインスタントラーメン。一人当たりの消費量は、日本が47.7食に対し、韓国が73食とベトナム87食に次ぐ世界第2位のラーメン消費国となっています。(2021年世界ラーメン協会、一般社団法人日本即席食品工業協会の調べ)今やグローバルフードとなったインスタントラーメンの姿を、全と奥井はどのように見ているでしょう?


*この記事は、日本のコリアネット名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。

eykim86@korea.kr