韓国人のDNAには興が刻まれています。嬉しい時には歌と踊りで興を添えるのはもちろんのこと、苦しく辛いことがあっても風刺とユーモアで乗り越えます。
このような民族であるからこそ、日常生活をより豊かにする音楽、絵画、工芸などを作り上げ、享受することができました。特に、国楽の独創性や民謡「アリラン」に込められた情緒は、世界の人々を感嘆させます。これが、K-POPをきっかけに韓国を知った外国人が、ハングルや国楽、工芸といった韓国の文化に接すると、韓国がより好きになる理由です。
韓国の文化芸術は最近、世界的に注目を集めています。クラシック音楽を専攻する若者たちが国際コンクールの舞台を席巻する一方、文学作品も外国語に翻訳され、海外の読者を惹きつけています。李禹煥(イ・ウファン)や朴栖甫(パク・ソボ)といった韓国画家の単色画は、最近世界で最も注目される美術品として急浮上しています。
K-POPの熱気はどの分野よりも高まっています。ボーイズグループBTSが成し遂げた成果は、目覚ましいものがあります。2020年8月、BTSの英語曲シングル「ダイナマイト(Dynamite)」が米ビルボードシングルチャート「ホット100」で1位を記録し、世界を驚かせました。アジアの歌手が「ホット100」で1位になったのは1963年以来のことで、韓国の歌手としては初めてのことです。この記録は特定のグループの快挙というよりも、それまで日本、中国、東南アジアを経てアメリカや南米、ヨーロッパなど全世界へ広がったK-POPの人気が反映された結果といえます。
映画『ミナリ』をはじめ、Netflixシリーズの『イカゲーム』、2022年5月の第75回カンヌ国際映画祭で主演のソン・ガンホが最優秀男優賞を受賞した映画『ベイビー・ブローカー』まで、世界は韓国のコンテンツに熱狂しています。Netflixに韓国のコンテンツが公開されると、人気シリーズの上位を占めるのは、もはや目新しいことではありません。
このように世界で認められた韓国文化の芸術的優秀性は、一朝一夕に作り上げられてできたものではありません。三国時代の古墳壁画と遺物から感じられる独創的な芸術的感性は、統一新羅、高麗、朝鮮時代を経てさらに豊かになり、深みが増しました。このような祖先たちの芸術性が今日の韓国の国民や芸術家たちに連綿と受け継がれています。
古くから伝わる韓国の文化芸術遺産のうち、多くがユネスコの保護対象として登録されています。2022年現在、世界遺産15件、世界記録遺産16件、人類無形文化遺産22件など、登録されているものは全部で53件です。
慶州歴史遺跡地区
慶州(キョンジュ)は、約1000年間続いた新羅の首都だった場所で、「壁と屋根のない博物館」と呼ばれるほど、歴史的価値の高い遺物が多く残っています。写真は新羅古墳群の全景です。
世界遺産
昌徳宮
ソウル市鐘路区(チョンノグ)臥龍洞(ワリョンドン)に位置する昌徳宮(チャンドックン)は、朝鮮時代(1392~1910)の昔の宮殿の様子がうかがえる代表的な遺跡です。1405年に離宮として完成しましたが、正宮だった景福宮(キョンボックン)が1592年に日本の侵略によって全焼したため、1867年に再建されるまで朝鮮の王たちは昌徳宮を正宮として使用しました。1997年にはユネスコ世界遺産に登録されました。
昌徳宮 仁政殿
王の即位式や臣下の祝賀式、外国使臣の接見など、主要な国家的儀式が行われた場所です。
昌徳宮は朝鮮時代の建築物ですが、高麗時代の宮殿の伝統を受け継ぎ、自然の地形に合わせて山裾に建てられました。大部分の宮殿は権威を顕示するような配置で建築されるのに対し、昌徳宮は自然条件を活かし、北岳山(プガクサン)の稜線である鷹峰(ウンボン)の山裾の形に合わせて宮殿を機能に応じて適切に配置しました。
正門の敦化門(トンファムン)をはじめ、仁政殿(インジョンジョン)、宣政殿(ソンジョンジョン)など、当時の建物の多くがそのまま残り、韓国の伝統庭園である後苑(フウォン)まで備えた優れた歴史遺産です。宮殿内に位置する楽善斎(ナクソンジェ)は、伝統韓屋の美しさをそのままとどめています。
宗廟
ソウル市鐘路区薫井洞(フンジョンドン)に位置する宗廟(チョンミョ)は、歴代の王と王妃、追尊王と王妃など、全部で83位の神主(亡くなった方の魂が宿る位牌)を祀る朝鮮王朝の祠堂です。儒教を根本理念とした朝鮮では、亡くなった先祖の魂が宿る場所を重要視しました。宋廟は、国家レベルで儒教の理念を実践したことがうかがえる場所でもあります。
宗廟
朝鮮の歴代の王と王妃の位牌が祀られた儒教の祠堂です。
宗廟の建物は、全体的に対称構造をなし、神主が保管されている建物の正殿(チョンジョン)と永寧殿(ヨンニョンジョン)の基壇、軒、屋根の高さと柱の太さは位階によって異なります。16世紀以来、原型が保存され、世界的にも独特な建築様式を持つ儀礼空間としての価値を保っています。ここでは、朝鮮の歴代の王と王妃の魂を称える宗廟祭礼が定期的に執り行われます。
水原華城
京畿道(キョンギド)水原市(スウォンシ)長安区(チャンアンク)に位置する水原華城(スウォンファソン)は、1796年、正祖(チョンジョ)王の時代に建てられた全長5.7kmの城郭です。正祖は、父の思悼世子(サドセジャ)の墓を京畿道楊州(ヤンジュ)からこの近くに移し、城を建てました。
城郭施設の機能が合理的で実用的な構造となっており、通常の城郭とは異なり軍事的な防御機能と商業的機能を兼ね備えた文化財として高く評価されています。実学者である丁若鏞(チョン・ヤギョン)が滑車の原理を利用して開発した挙重機(コジュンギ)(動く滑車を利用し、低い所の石を積むのに使用)や、ろくろ(固定滑車を利用しクレーンのように石を高いところへ移動するのに使用)などの科学的な道具を利用して完成させました。
正祖王が夢見た世に焦点を当てた、見どころが満載の水原華城文化祭りは、毎年華城一帯で開催されています。正祖大王陵行幸を再現した行事は、2018年に続いて2022年10月に4年ぶりに開催されました。
水原華城
東洋と西洋の軍事施設理論を組み合わせた独特な城で、防御機能に優れた点が特徴です。
石窟庵・仏国寺
石窟庵(ソックラム)は慶尚北道(キョンサンプクド)慶州市(キョンジュシ)吐含山(トハムサン)に位置する統一新羅時代の代表的な石窟寺院で、774年に完成しました。優れた彫刻技法が発揮された作品であり、東海(トンヘ)に昇る朝日が石窟庵の奥深くまで射し込み、仏の額を照らすように設計されています。
石窟庵と同じ時期に建立された仏国寺(プルグクサ)は、寺の全体的な配置に優れ、大雄殿(テウンジョン)の前庭に並んで立っている多宝塔(タボタプ)と釈迦塔(ソッカタプ)が特に目を引きます。両方とも新羅の様式を表現していますが、釈迦塔がシンプルなのに対し、多宝塔は精巧で華やかです。
仏国寺
仏教の教理が寺院建築物を通してよく形象化されています。写真は仏国寺の青雲橋と白雲橋です。
石窟庵
非常に高い蓮華座台に鎮座する石窟内の本尊仏とその横顔です。
多宝塔は花崗岩を非常に精巧に加工して塔を積み上げたもので、韓国の石塔の中でも形が非常に特徴的です。韓国の10ウォン硬貨にその姿が刻まれています。一方、装飾を省き構造的な比例によって完全な美しさを表現した釈迦塔は韓国仏教石塔の原型とされ、その後似たような作品が多く作られました。
仏国寺の大雄殿へ上がる青雲橋(チョンウンギョ)と白雲橋(ペグンギョ)は、造形の美しさだけでなく、極楽浄土に行くには水を渡り、雲を通り過ぎて行かなければならないという宗教的な概念も含んでいます。
朝鮮王陵
東九陵(トングルン)、西五陵(ソオルン)、西三陵(ソサムルン)、洪裕陵(ホンユルン)などは朝鮮時代の王陵です。すべてソウルに近い京畿道九里市(クリシ)や高陽市(コヤンシ)、南楊州市(ナミャンジュシ)などにあります。朝鮮時代の王と王妃の陵は合計44基あり、このうち40基がユネスコ世界文化遺産に登録されています。
王陵は儒教思想や風水など、当時の価値観が圧縮された葬墓文化の現場だったという点において、文化財としての価値が認められています。この王陵が毀損されず元の姿のまま保存されているということも注目に値します。
海印寺蔵経板殿
高麗大蔵経の経板は、海印寺(ヘインサ)の建物の中で最も古い蔵経板殿(チャンギョンパンジョン)に保管されています。1488年に完成した蔵経板殿の建築は木材経板の腐食を防ぐため、科学的で独特な方法が使用されました。大蔵経板が保管された蔵経板殿は、海印寺で最も高い標高700m地点に建てられました。
建物は4方向にそれぞれ向かい合うように設計されており、風通しがスムーズです。伽倻山(カヤサン)の地形的な特性上、谷から吹いてくる風を利用した自然な換気が可能です。壁面の上下と建物の前後の格子窓の大きさを変えることによって、空気が室内に入り上下に対流してから出ていくように作られました。空気を対流させることで適正温度を保つこの格子窓からは、科学的な建築技術の優秀さをうかがい知ることができます。建物の床には、地面を深く掘り下げて炭、粘土、砂、塩、石灰の粉などを撒きましたが、これらは雨がたくさん降ると湿気を吸い、日照りで乾燥すると湿度を上げるように、湿気を自動調節する機能を果たします。
南漢山城
南漢山城(ナマンサンソン)は672年、統一新羅の文武(ムンム)王の時に築城した晝長城(チュジャンソン)の跡を活用し、1626年、朝鮮の仁祖(インジョ)王の時に大々的に改修されました。
南漢山城
統一新羅から朝鮮時代まで続く築城術各時代の発達段階をよく表している山城です。
ソウルの中心部から南東に25km離れた場所に位置し、平均高度が標高480m以上の険しい山勢を利用して防御力を最大化しました。その周囲は約12.3kmに達します。山の上に都市が形成され、朝鮮時代の記録では約4,000人が南漢山城に居住し、緊急時には王室と軍事指揮部が避難できる臨時首都としての役割を果たしました。さらに都城の性質を持たせるため、1711年、粛宗(スクチョン)王の時代に行宮(ヘングン、王が一時的に滞在するために作られた宮殿)をはじめとする宗廟と社稷壇(サジクダン)が造成されました。
また、南漢山城は16世紀から18世紀まで続いた東アジア地域での争いの中で、韓国(朝鮮)、日本(安土桃山時代)、中国(明と清)が山城建築術に関し、広範囲に及ぶ影響を与え合った重要な証拠であることが分かっています。この期間における西洋の火砲の導入による武器体系の変化が、南漢山城の城郭築城にも大きな影響を与えました。その結果、南漢山城では、7世紀から19世紀にかけて城郭築城術が時代ごとに変化した過程を今も見ることができます。
百済歴史遺跡地区
百済(ペクチェ)は、紀元前18年から西暦660年までの約700年間に存在した韓(朝鮮)半島の古代国家の一つです。百済歴史遺跡地区は公州市(コンジュシ)、扶余郡(プヨグン)、益山市(イクサンシ)など3市郡8か所の文化遺産で構成されています。詳しい登録地域を見ると、忠清南道(チュンチョンナムド)公州市は公山城(コンサンソン)、宋山里(ソンサンリ)古墳群の2か所、忠清南道扶余郡は官北里(クァンブクリ)遺跡と扶蘇山城(プソサンソン)、陵山里(ヌンサンリ)古墳群、定林寺址(チョンリムサジ)、扶余羅城(プヨナソン)の4か所、全羅北道(チョルラブクド)益山市は王宮里(ワングンリ)遺跡、弥勒寺址(ミルクサジ)の2か所です。
百済歴史遺跡地区は、5~7世紀における韓国・中国・日本の古代東アジアの王国間の交流や、その結果として発展した建築技術と仏教の拡大を示す考古学的遺跡です。また、首都の立地、仏教寺院や古墳群、建築物や石塔などからは、韓国の古代王国である百済の文化・宗教・芸術美をうかがい知ることができます。
公山城
錦江(クムガン)沿いの山の稜線や渓谷を取り囲む山城で、百済時代は熊津城(ウンジンソン)と呼ばれていましたが、高麗時代以降は公山城と呼ばれています。
宋山里古墳群
熊津時代(475~538)の百済王と王族の墓で、現在は武寧王陵(ムリョンワンヌン)を含め1~6号墳まで7基が復元されています。
定林寺址
扶余邑東南里(トンナムニ)にある百済時代の寺跡です。五重の石塔と石造如来坐像が残っています。
韓国の書院
書院(ソウォン)は、中国から韓国に導入され、朝鮮時代に最盛期を迎えた学問である「性理学」を教えた教育機関です。そのほとんどが16世紀半ばから17世紀の間に設立され、韓国中部と南部を中心に全国各地に建てられた紹修(ソス)書院、南渓(ナムゲ)書院、玉山(オクサン)書院、陶山(トサン)書院、筆岩(ピラム)書院、道東(トドン)書院、屏山(ピョンサン)書院、武城(ムソン)書院、遯岩(トナム)書院の9つの書院は、現代の韓国の性理学と教育文化の優秀性を示す文化遺産として挙げられます。
書院を率いたのは各書院の位置する地域の有識者で、彼らのおかげで朝鮮時代は書院を中心に文化が発展し繁栄しました。有識者たちは書院を通じて、後学が学習に集中できる教育体制と類型的構造を作り上げました。書院の中核的な機能である学習と相互交流的な特徴は、建物の配置にもよく表れています。
陶山書院
陶山(トサン)書院は、退溪(テゲ)李滉(イ・ファン)(1501~1570)の学問と徳行を称え、偲ぶために1574年に建てられた書院です。
世界記録遺産
訓民正音
訓民正音(フンミンジョンウム)は1443年に世宗大王が新しい文字を創製し、創製の背景と原理を説明するために書いた訓民正音の解説書で、その文字の名称でもあります。この本は木版で印刷され、計33枚で構成されています。原理の説明と使用例が盛り込まれている「解例」があるため、「訓民正音解例本(フンミンジョンウムヘレボン)」とも呼ばれます。新しい文字の創製者および創製の時期や背景、原理などを解説書に残しているのは、世界的にもこの本が唯一です。その価値が認められ、1962年には韓国の国宝に指定され、1997年にはユネスコ世界記録遺産に登録されました。
この本が完成した1446年陰暦9月上旬を訓民正音を頒布した日として陽暦10月9日をハングルの日に制定し、民のために新しい文字を創製した世宗大王の民を慈しむ精神と、訓民正音創製の意義を称えています。訓民正音は現在、ソウルの澗松(カンソン)美術館が所蔵しています。
訓民正音解例本の「用字例」
初声、中声、終声の文字の用例を当時の韓国語の単語で示した部分
朝鮮王朝実録
朝鮮王朝実録(チョソンワンジョシルロク)は、1392年から1863年までの472年間、朝鮮時代の王と臣下たちの行跡と政策に関する事柄を編年体で記録した歴史記録です。全1,893巻888冊からなり、ソウル大学の奎章閣(キュジャンガク)と国家記録院釜山記録情報センターなどに保管されています。実録の編纂は主に王が他界した後、次の王の即位初期に行われ、士官が随時作成しておいた草稿を基本資料として活用しました。
王室の動向はもちろん、当時の政治・経済・社会・文化など全分野にわたる様々な歴史的事実が収録されたという点において、非常に貴重な資料として評価されています。実録が完成し、一旦書庫に保管されると、誰にも閲覧が許可されませんでした。
王室の祭祀や外国使臣の接待など重要な行事が行われる場合にのみ、過去の事例を参考にするため、例外的にその内容の一部を確認することができました。
実録を保管する書庫は元々宮殿内にあった春秋館(チュンチュグァン)と忠州(チュンジュ)、全州(チョンジュ)、星州(ソンジュ)の4か所にありましたが、1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時にほとんどが焼失してしまいました。以降、妙香山(ミョヒャンサン)、太白山(テベクサン)、五台山(オデサン)、江華島(カンファド)の摩尼山(マニサン)に新たに書庫を設置して実録を保管しました。
承政院日記
承政院日記(スンジョンウォンイルギ)は、1623年3月から1910年8月まで、王の秘書室にあたる承政院で日々処理した文書や事件を日記形式で記録したものです。歴代の王の命令はもちろん、各官庁の報告や上訴内容が詳細に記録されています。全3,243巻に及び、ソウル大学の奎章閣に所蔵されています。
日省録
日省録(イルソンロク)は、朝鮮後期の王の活動と国政運営を記録した年代記です。王の立場で記録した日記体で書かれていますが、実質的には政府の公式記録物だといえます。1760年(英祖36年)から1910年(隆煕4年)までの151年間の記録が、全2,329巻で構成されています。18~20世紀の朝鮮内部の政治活動から、東洋と西洋の政治・文化的交流の具体的な姿と世界史の普遍的な流れまで盛り込まれています。
朝鮮王朝儀軌
朝鮮王朝儀軌(チョソンワンジョウィゲ)は朝鮮時代の王室で行われた様々な儀式の内容を整理した記録です。朝鮮王朝実録より内容が詳しく記されており、王の行幸の様子などが絵でも表現され、より現実的に感じられます。
王妃と世子(王位継承1位の王子)の冊封や婚礼をはじめ、王室の葬儀、王陵の造成や改葬などの祭礼が主な内容ですが、王が模範を示すために直接農業を行う親耕(チンギョン)や、宮殿の建物の新築や補修などの場合にも儀軌が編纂されました。正祖(チョンジョ)王の時にも華城城郭の築城と水原への行幸を記録した詳しい儀軌が作成されました。
儀軌は朝鮮王朝実録と同様に書庫に保管されましたが、朝鮮王朝初期の儀軌は1592年の壬辰倭乱の時にほとんどが焼失しました。しかし幸いにして、その後製作された全3,895巻に及ぶ膨大な儀軌は残っています。
この儀軌は1866年にフランス軍が搬出しパリ国立図書館に保管されていましたが、韓国政府と学界の継続的な返還要請によって、2011年に永久賃貸方式ですべて返還されました。
日省録
1760年から1910年まで、朝鮮後期の王の活動と国家行政のすべてを日記形式で記録した年代記です。
英祖貞純王后嘉礼図鑑儀軌(朝鮮、18世紀)
「嘉礼」は王室の大きな慶事を意味し、特に「嘉礼図鑑儀軌」は王や王世子(王の継承者)の結婚式を整理した記録のことを指します。写真は、朝鮮第21代王の英祖と継妃である貞純王后の婚礼を記録した儀軌の一部です。
海印寺大蔵経板(ヘインサ テジャンギョンパン)及び諸経板(チェギョンパン)
高麗大蔵経板は高麗時代(918~1392)の1236年から15年間にわたり経を木に刻んだ経板です。経板の数が全部で81,258枚なので、八万大蔵経(パルマンテジャンキョン)とも呼ばれています。全ての経版の両面に経が刻まれています。現在は、慶尚南道(キョンサンナムド)陜川郡(ハプチョングン)の海印寺(ヘインサ)に保管されています。海印寺は802年に建てられた仏教寺院です。
高麗大蔵経板はモンゴルの侵入によって国難に直面した高麗が、仏教の力で状況を打開するために製作されました。中国の宋、元、明の時に刻まれた他の大蔵経板と比較すると、仏教の内容がはるかに豊富で、経板が完全な状態で保存されている、貴重な世界文化遺産です。高麗大蔵経板の製作は韓国の印刷・出版技術の発展にも大きく貢献しました。
海印寺大蔵経板及び諸経板
長い時間をかけて完成した経板で、高麗時代の政治、文化、思想の流れや様子がうかがえる歴史記録物です。
5·18民主化運動記録物
5・18民主化運動とは、1980年5月18日から27日まで光州(クァンジュ)を中心に展開された民主化要求運動のことです。5・18民主化運動は1980年代以降、東アジア地域での民主化運動の拡散に少なからぬ影響を及ぼしたと評価されています。5・18民主化運動記録物は、当時の市民たちの一連の活動と、その後のこの事件の被害者補償に関して記録した文書、写真、映像などの資料の総称で、登録記録物は5・18記念財団、国家記録院、陸軍本部、国会図書館、アメリカで所蔵されている記録物で構成されています。
世界人類無形文化遺産
宗廟祭礼と宗廟祭礼楽
宗廟祭礼(チョンミョジェレ)は宗廟で行われる朝鮮王朝の歴代の王と王妃の祭祀で、毎年5月の第1日曜日に行われます。朝鮮王室で最も格式の高い儀式であり、儒教が国家の理念として定着した朝鮮時代に、祖先を祀る祭祀を通じて人間の道理を実践し、社会的な繋がりと秩序を形成する役割を果たしました。
宗廟祭礼の中で儀式を荘厳に行うために演奏される器楽や歌や舞を宗廟祭礼楽(チョンミョジェレアク)と言います。打楽器や弦楽器など様々な楽器で演奏される音楽や、文舞(ムンム)と武舞(ムム)の舞を通じて、重厚感と華やかさを同時に感じることができます。宗廟祭礼と宗廟祭礼楽は、儀式と音楽が調和し、500年以上にわたってほぼ原型のまま保存されてきた総合芸術だといえます。
宗廟祭礼楽の佾舞(イルム)から文舞
宗廟祭礼楽での踊りを佾舞といい、佾舞は文舞と武舞の2種類に分けられます。文舞が静かで柔らかい文人好みの踊りであるのに対し、武踊は力強い武人的な踊りです。
パンソリ
パンソリは一人の唱者がソリ(歌唱)、アニリ(台詞)、ノルムセ(ジェスチャー)で長い話を紡いでいき、鼓手が合いの手を入れながら太鼓のリズムで伴奏する唱歌です。18世紀から現代まで愛され、芸術音楽として発達を遂げてきました。
パンソリ
一人の歌い手が鼓手(太鼓を叩く人)のリズムに合わせてソリ(歌唱)、アニリ(台詞)、ノルムセ(ジェスチャー)を混ぜながら口演する一種のソロオペラです。
江陵端午祭
江陵端午祭(カンヌンタノジェ)は、韓国で最も歴史が古く、伝統民俗祭りの原型がそのまま残っている祭りです。毎年端午(陰暦5月5日)の前に、江原道(カンウォンド)江陵でおよそ30日間行われます。村を守ってくれる大関嶺(テグァルリョン)の山の神へ祭祀を執り行います。村の平安と農業の繁栄、家庭の平和を願いながら、地域住民が親睦を深め団結する協同精神を垣間見ることができます。
端午祭は陰暦4月5日、神に捧げるお酒を造ることから始まります。これを「神酒造り(神酒謹醸)」といいます。かつて、お酒は天上と地上の魂をつなぐ飲み物、すなわち神の象徴だと信じられていました。この他に、官奴(国有の奴隷)が踊りと身振りで演じる韓国唯一の無言仮面劇である官奴仮面劇(クァノカミョングク)をはじめ、ブランコやシルム(韓国相撲)、農楽コンテスト、菖蒲湯を使った洗髪、スリチトク(ヤマボクチの若葉を混ぜてこしきで蒸した餅)がふるまわれるなど、様々なイベントが開催されます。その中でも菖蒲洗髪は女性たちが菖蒲を煮出した湯で髪を洗って艶を出す風習で、端午の日に無病長寿を願い邪気を払うという意味があります。
江陵端午祭
陰暦4月から5月初めまで、嶺東(ヨンドン)地域で行われる伝統の祭りです。写真は江陵端午祭の官奴仮面劇の公演の様子です。
カンガンスルレ
全羅南道(チョルラナムド)の沿岸地域一帯で、秋夕(チュソク)や小正月に、主に女性たちの間で行われた歌や踊りを組み合わせた民俗遊びです。現在は芸術的に発展を遂げ全国で民俗公演として行われています。屋外の広いスペースに集まり、手をつなぎ輪になって踊る集団舞踊が基本で、途中で「ナムセンイノリ(クサガメ遊び)」や「トクソクモリ(先頭の人が輪の中心へ渦を巻くように進むこと)」、「コサリコッキ(わらび採り遊び)」などの遊びがいくつか入ります。カンガンスルレの歌は一人が音頭を取って残りの人々が合唱します。チニャン調のゆっくりしたリズムから始まって、チュンチュンモリ、チャジンモリへと徐々にリズムが速くなり、踊りの動きもこれに合わせて変化します。
ナムサダンノリ
ナムサダンノリ(男寺党遊び)は一種の流浪楽団である男寺党牌(ナムサダンペ)が、市場や村を回って行った風物遊びや綱渡り、平鉢回し、仮面劇、人形劇などの公演のことです。主に農民たちの間で行われていた韓国固有の民俗遊びです。鼓やチャング、鉦、どら、ラッパ、太平簫(テピョンソ)を演奏しながら歌い踊ります。田畑の草取りや田植えなどのつらい仕事をする時に、疲れを癒して仕事の能率を上げ、協調性を高めるために始まりました。
霊山斎(ヨンサンジェ)
亡くなった人の魂が極楽往生できるように、命日から数えて49日目に行う仏教儀式です。高麗時代から伝承され、生きている人と亡くなった人の両方が仏の真理を悟り、煩悩と苦しみから解放されるために行われます。単なる公演ではなく大衆が参加する仏教儀式としての価値があり、祭祀儀礼だけでなく国の泰平と民の安寧のためにも行われました。
済州チルモリ堂霊登クッ(チェジュ チルモリダン ヨンドゥンクッ)
済州島地域に伝わる村のクッ(祈祷)の一つで、大漁と豊かな生活を願って行われます。済州島では陰暦2月を霊登月といいますが、この期間に風の神の霊登ハルモ二(おばあさん)が村や家の中に入ってきて、満月の日に出て行くと考える民俗信仰から始まりました。
テッキョン
韓国の伝統武芸の一つで角戯(カクヒ)や飛脚術(ピガクスル)とも呼ばれるテッキョンは「蹴り」という意味があり、古文献には「卓見(タッキョン)」と記されています。テコンドーとは歴史的・技術的にも異なる武芸です。テッキョンの特徴は、手足や体の動きが筋肉の動きと一致するためしなやかで、相手と自然に組み合える武術だという点です。また、音楽的で舞踊的なリズムを持つため、芸術性の高い武芸として評価されています。他の武芸と比べると、攻撃よりは守備に重点を置いており、足をよく動かします。
競技方法は簡単です。相手に向かって片方の足を踏み出す待接(テジョプ)の状態から始まり、手足を使って相手を倒したり、顔を足で蹴ったりすれば勝ちです。
チュルタギ
演者が綱を渡りながら歌って踊り、漫談をする遊びです。チュルタギ(綱渡り)の演者が綱の上で芸をする時、下ではちょうちん持ちがおどけて雰囲気を盛り上げます。かつては宮中で新年の平安を祈願する厄払いの儀式や、外国の使臣をもてなす宴会などでも行われましたが、次第に村や市場での庶民の遊びへと変化しました。裕福な家の還暦の宴や誕生日のお祝いなどでも行われました。
韓国の綱渡りは外国の綱渡りとは異なり、綱を渡るだけの技術にとどまらず、歌や漫談をまじえることで、綱を渡る人と観客が一緒に楽しむ場を作るという特徴があります。
テッキョン
柔軟な体の動きで相手を制圧し、自分の体を守る韓国の伝統武術です。
チュルタギ
綱を渡るだけの技術にとどまらず、歌や漫談をまじえ、綱を渡る人と観客が一緒に楽しむ場を作ります。
鷹狩り(メサニャン)
野生の鷹を調教し、キジやウサギを狩る遊びです。韓半島では数千年前に始まり、高麗時代(918~1392)に最も盛んになり、北側の地域でより流行しました。時期的には陰暦の10月から、冬が過ぎて春の農作業が始まる前まで行われました。鷹の足首には革ひもを結び、尾には飼いならした所有者の名前を記した印と鈴をつけました。鈴は、キジを捕まえて地上に降りてきた鷹の位置を把握するためのものです。2010年にモンゴル、フランス、チェコ、スペイン、シリアなどの全11か国と共同でユネスコ世界無形遺産に登録されました。
アリラン
アリランは韓国文化を代表する民謡です。1つの曲ではなく、地域ごとに様々なバージョンで伝承されています。現在、「アリラン」という曲名で伝承されている民謡は約60種、3,600曲もあります。
アリランは多くの世代にわたって国民が共同で作り上げてきた歌です。誰でも新しい歌詞とメロディーをつけられるので、地域の特色に合った様々なバージョンで受け継がれてきました。最も有名なアリランは、江原道地域の「旌善(チョンソン)アリラン」、全羅南道地域の「珍島(チンド)アリラン」、慶尚南道地域の「密陽(ミリャン)アリラン」です。地域ごとに異なる歌詞とリズムで伝承されていますが、繰り返しの部分には「アリラン」、「アラリ」などの似たようなフレーズが入ります。
多様なバージョンが存在するだけに歌の内容も様々です。その時々で農作業の苦労を労う労働歌として、また心をつなぐ愛の歌や豊穣の願いを込めた祈りの歌、楽しい時に雰囲気を盛り上げる遊戯歌としても歌われます。1つ共通するのは、国民が生活の中で感じる喜怒哀楽の感情を盛り込んでいる点です。自分の状況に合った歌を作って歌うアリランの特徴は、韓国文化の多様性をより豊かにするきっかけとなりました。
今日のアリランは国家的に重要な行事の際、韓国人の心を一つにする役割を担っています。2000年の第27回シドニーオリンピックに出場した韓国代表団は競技場への入場時にアリランを歌い、2002年の韓日サッカーワールドカップの際には、応援団の「レッドデビル」が韓国のサッカー代表チームの応援歌としてアリランを歌いました。
韓国のキムジャン文化
キムジャンは冬の間に食べる大量のキムチを作る作業のことで、韓国人にとって欠かせない越冬準備です。キムチは韓国を代表する食べ物の一つで、韓国人の食卓には主なおかずとして常に登場します。そのため、キムジャンは韓国人の越冬準備の中でも最も重要な作業だといえます。
キムジャンの準備は、季節ごとにする作業が決まっており、その過程は1年かけて行われます。春には各家庭でセウジョッ(アミの塩辛)やミョルチジョッ(カタクチイワシの塩辛)など、様々な海産物のチョッカル(塩辛)を準備します。夏には天日塩を用意し、夏の終わりには唐辛子を乾燥させ、粉にしておきます。晩秋と初冬を迎え本格的なキムジャンの時期になると、家族や村などの共同体ごとに集まり、準備した材料を使ってキムチを漬けます。
キムジャンは多くの人が集まって大量のキムチを漬けるため、韓国の共同体文化にも深く関連しています。従って、キムジャン文化は個人主義の雰囲気が強まりつつある現代社会において、社会のメンバー間の連帯感を高め、韓国人としてのアイデンティティを保つことにも繋がります。また、何世代にもわたり受け継がれてきた、韓国人の分かち合い文化を象徴するという点においても、意義深いといえます。
こうしたことが認められ、キムジャン文化は2013年12月5日にユネスコ人類無形文化遺産に登録されました。
キムジャン
キムジャンは、新鮮な野菜の入手が困難な冬に備え、初冬にキムチを大量に漬けて貯蔵する伝統的な風習です。地域別に材料と調理方法が異なるため、味と栄養素も少しずつ異なります。e are also slightly different.