名誉記者団

2022.09.28

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[東京=岡本美砂(日本)]


日露戦争直後の1905年、人生50年といわれた時代に、齢55歳で韓国に赴き、30年に渡り女子教育に挺身した女性がいました。彼女の名は淵澤能恵(ふちざわのえ)。

淵澤能恵(1850-1936)は、現在の岩手県稗貫郡石鳥谷町で生まれました。生後9か月で養子に出されますが、6歳の時に養父が他界。養母カルに育てられます。13歳から10年間履物を商う「河内屋」で奉公し、23歳で結婚。しかし結婚はうまくいかず、離婚後兄を頼り、釜石に向かいます。この地で福沢諭吉の『学問のすすめ』『西洋事情』を熟読し、アメリカに関心を持つようになります。


① 晩年の淵澤能恵 出典『淵澤能恵の生涯』

晩年の淵澤能恵=『淵澤能恵の生涯』


転機が訪れたのは1879年。御用技師G.パーセル一家が帰国する際、能恵はメイドとしてアメリカ船に同乗します。29歳でした。パーセル家で1年3カ月、その後、サンフランシスコのミス・プリンス家で働きながら英語と家政学を学び、1882年洗礼を受けました。

この年、養母からの再三の帰国要請に帰国。32歳で同志社女学校に入学しますが、1885年6月に中退。同年9月から東洋英和女学校で教鞭を執り始め、1887年からは一ツ橋高等女学校でミス・プリンスの通訳兼舎監、その後下関の洗心女学校、福岡英和女学校、熊本女学校で教員として勤務。1894年病を得て退職後は、上京して私塾や「梅屋文具店」を開業して生計を立てていましたが、1904年、最愛の養母が亡くなります。

1905年能恵はアメリカからの帰国船で知り合った、貴族院議員で子爵の岡部長職・抵子夫妻の誘いで朝鮮を訪れます。これが第二の転機となりました。旅行中赤痢にかかった能恵は、期せずしてこの地の現状を目の当たりにすることになります。女性は男性に盲目的に従うものとされ、自分の意思で行動することも許されず、貴族の娘は身支度はもちろん、食事も口に運んでもらう状態だったのです。後年「保養の間に朝鮮婦人の生活を見まして、彼らが毎日室内にばかり閉じ籠っているのを気の毒に思い、このままでは朝鮮の婦人は滅びてしまおう、何とかしてこの気の毒な人達を救ってやらねばならないと存じまして、先ずそれには教育しなければならない、と思って始めたのが…最初の動機であります」と述懐しています。


④ 没後70周年を記念して建立された淵澤能恵顕彰碑 花巻市立石鳥谷図書館提供

没後70周年を記念して建立された淵澤能恵顕彰碑=花巻市立石鳥谷図書館提供


残りの人生を朝鮮女子教育に捧げる決心をした能恵は、1906年1月、女学校開校に向け、婦人の交流を目的とした「日韓婦人会」を設立。総裁は朝鮮王朝最後の皇太子李垠の生母「厳妃」、会長に「李貞淑」副会長に「李王郷」が任命され、総務を能恵が引き受けることになりました。5月、「明新女学校」を創立。初代校長「李貞淑」は、韓国初の韓国人女性校長となり、能恵は学監兼主任教師に任じられました。この学校こそ「淑明学園」の前身です。創立理念は「救国・愛族」、淑明は貞淑な徳と賢明な智を意味します。


日本式教育を範とした貴族学校として開校したものの、生徒はわずか5名。入学資格審査が「父母双方3代の経歴を調べ、正しいとされた士族の女子」とあまりに厳しかったこと、女子教育への理解が乏しかったことが原因です。授業は日本語・修身・裁縫・手芸その他小学生が習う学習内容が中心で、能恵は日本語・修身・読書・算術を担当しました。

「東奔西走説き廻って得た唯五人の生徒も、貴婦人は決して昼徒歩して往来せず、必ず駕籠に乗るか、さもなくば被衣(かつぎ)を被らなければならないという風習のために通学させることが出来ず」寄宿舎制度を取るようになったことや、生徒数が増え、寄宿舎に収容しきれなくなった際、貴族の娘が徒歩で通学する習慣がなかったため、「同じ服を着て、同じ帽子を被っていれば、どこの誰かわからず一人で通学できるから」と制服を支給したこと、「当初、入学したての生徒の教育は大変でした。言葉が通じない上に良い通訳がいないのです。特に貴族の子弟の娘なので男性教師を使うことが出来ません。一番困ったことは漢文の女性教師がいないことでした」等、創立当初の苦労と共に、「私が朝鮮に参ったのは、天の使命と思います。欲得忘れて彼等娘等が、私と一処に働く気になってくれるのは何時の事かと計り思っています。朝鮮にあるのは報恩の心です。昔朝鮮の開けていたときは、我が国は導かれました。今は私どもが少し進んでいるから、その方法を教えに参ったという考えです」と女子教育に捧げる思いが『婦人新報』に記されています。
 
李貞淑と能恵は以心伝心の仲といわれる程信頼関係が厚く、協力して学校運営にあたり、当初5名だった生徒数は、能恵が亡くなる1936年には528名を数えるまでになりました。


1910年、京城(現ソウル)に朝鮮総督府が設置されると、能恵が生徒と寝食を共にし、「温良貞淑な良妻賢母」の育成に心血を注いだ「淑明高等女学校」にも独立運動の波が押し寄せます。「天長節(明治天皇誕生慶祝)式典拒否」、1919年の「3・1独立運動」への参加、1927年に起きた「同盟休校事件」は、日本人教師の免職要求にとどまらず、日本化教育に対する抵抗の様相を呈し、生徒400名と父兄会を巻き込んで4か月も続きました。能恵は学校と朝鮮総督府の間に立って腐心します。独立運動に参加して連行された生徒がいれば「この子は私の生徒です」と毅然とした態度で身柄を引き受け、一人の犠牲者も、拘束された生徒も出しませんでした。前途ある生徒の身を守るため、学籍を取り消すことなく卒業させたのです。
 
能恵は朝鮮人といわず、「朝鮮の人」と呼び、「私は『内地人だ、鮮人(当時の朝鮮人を意味する表現)だ、という区別』がなくなるように、お互いが融和し親しむようにするために一生を捧げる決意をしています」と語っていることから「内鮮融和の母」といわれています。これを人種差別のない教育を目指したと肯定的に捉える人がいる一方、植民地支配の矛盾を覆い隠す欺瞞的な役割を果たしたに過ぎないと批判する人もいます。在朝鮮愛国婦人会評議員、組合教会婦人会長、キリスト教矯風会朝鮮支部長等を歴任、朝鮮総督府、矯風会や日本組合教会との強いつながりがあったがゆえに、植民地支配に加担したという謗りを免れないのは事実です。それでも、目まぐるしく移り変わる時代の中「淑明女子大学」の礎を築き、韓国の女性教育の道を拓いた功績は、評価していいのではないでしょうか。


③ 1936年建立された淵澤能恵の墓。浅川伯教の設計。  出典『淵澤能恵の生涯』

1936年建立された淵澤能恵の墓。浅川伯教の設計=『淵澤能恵の生涯』


生前、能恵と暮らした人物は次のようなエピソードを残しています。


「お婆さん(能恵)は、年中笑っているような穏やかな顔をしている人でした。笑うと目が三角になって、笑い皺さえもがとても素敵でした。一緒に生活して、その笑顔を見ると心が温まる思いがして、それだけでも楽しかったものです。


また、お婆さんは、寒い季節になると教え子が編んだ毛糸の帽子をいつもかぶっていました。そんなわけなので、教え子はかわるがわる毛糸の帽子をプレゼントしたので、お婆さんは、いろいろな帽子をかぶせられたそうです。この一事をみても、お婆さんが生徒に好かれていた様子が分かります。

私が感激したのは一人の少女(卒業した生徒)がお婆さんを頼ってきたときの出来事でした。お婆さんは『ああ、よく来た、よく来た』といってとても喜んで少女を抱きしめました。その少女はみすぼらしくて、とても不潔な感じのする子でした。少女が帰ったあとでお婆さんは虱をもらってしまいました。


お婆さんはそれを知って『いい置き土産をもらったよね』といって明るく笑ったのです。
その後、その少女が見違えるように綺麗になって訪ねてきてくれたとき、お婆さんは以前と同じように『よく来た、よく来た』といってとても喜びました。相手が不潔でも、きれいでもまったく同じように喜んだのです。


お婆さんは、相手がどんな風体の人であれ分け隔てなく愛の言葉をかけ、あたかも自分の子供のように可愛がりました」。


1936年2月、病に倒れた能恵は、肺炎を併発し亡くなります。86歳でした。葬儀は学校葬として営まれ、「京城府孔済墓地」に葬られました。浅川伯教により設計された墓は朝鮮戦争で失われ、現在故郷の菩提寺に眠っています。


*この記事は、日本のコリアネット名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。

eykim86@korea.kr