名誉記者団

2022.07.29

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 [東京=岡本美砂(日本)]

32年間で3,000人の孤児を育てた日本人女性がいます。彼女の名は田内千鶴子(たうちちづこ)韓国名 尹鶴子(ユン・ハクチャ)。今年10月に生誕110年を迎える千鶴子はいかにして「韓国孤児の母」となったのでしょうか?遺志を継ぎ、日本で社会福祉法人の理事長を務める、長男の尹基氏に話を伺いました。


田内千鶴子(1963年)と

田内千鶴子(1963年)と家族写真。中央が尹致浩と田内千鶴子、左が長男基(1948年)=社会福祉法人「こころの家族」提供


現在の高知市で生まれた田内千鶴子(1912-1968)は、7歳の時、父の赴任先である韓国全羅南道の木浦に渡ります。父は朝鮮総督府の官吏、母は敬虔なクリスチャンでした。ところが千鶴子が18歳の時に父の徳治が急死。母は千鶴子と韓国に留まることを決意します。


20歳で木浦貞明女子学校の音楽教師となった千鶴子は、24歳の時、恩師の高尾益太郎から思いがけない提案を受けます。「木浦の郊外で共生園という孤児院の園長をしているクリスチャンの青年が日本語の先生を探している。子どもたちに笑顔がないというんだ。こうした孤児を生んでしまったのは、植民地支配した私たち日本人に責任がある。君が行って笑顔を取り戻してあげてもらえないか?」。


② 共生園の始まり。中央に立つのが尹致浩(1928年)

共生園の始まり。中央に立つのが尹致浩(1928年)=社会福祉法人「こころの家族」提供


こうして、共生園で千鶴子は将来の伴侶となる尹致浩(ユン・チホ)と出会います。12歳でキリスト教に出会った尹致浩は「互いに愛し合い、共に生きる社会を創りたい」と1928年、孤児や障害児たち7名と木浦で共同生活を始めます。尹致浩19歳、共生園の原点です。


千鶴子が訪れた当初は、電気はおろか、壁もふすまもなく、土間に筵が敷いてあるだけの30畳程の部屋が一つ。そこに食うや食わずの50人程の子どもたちを尹が1人で世話をしていました。「乞食大将」と呼ばれていた尹の印象を、千鶴子は「身体は小さいが、澄んだ目をしていて、聴衆を虜にする魅力を持った人だった」と回想しています。2年後の1938年に二人は結婚。甘い新婚生活とは無縁の生活が始まりました。

第二次世界大戦が終わると、日本と韓国の立場は逆転します。1946年、既に二人の子どもがおり、三人目を身ごもっていた千鶴子は母と2児を連れて一度は高知へ引き揚げましたが、木浦に残した尹と孤児たちへの思いが募り、再び韓国へ戻ります。


1950年朝鮮戦争が勃発。共産軍が南下、尹致浩と千鶴子に孤児救済という名目で人民から金銭を搾取し、日本人を妻とした反逆者という嫌疑が掛けられます。尹が人民委員長の役を承諾すればその罪を許すというので、「子どもたちに食料を与えること、罪のない人は一人も殺さないこと」を条件に人民委員長を引き受けます。しかし、最初に与えられた任務は妻を裁くことでした。尹は村人に向かって植民地時代、千鶴子は周りの反対を押し切って自分と結婚し、孤児たちのために献身的に尽くしてくれたと述べ、「もし、彼女が日本人という理由だけで死刑にするのであれば、彼女の前に私を死刑にしてほしい」と訴えます。人民裁判で千鶴子は無罪。二人の命は保たれました。


ところが、共産軍が北に退却すると、人民委員長だった尹は国連軍によりスパイ容疑で逮捕されてしまいます。木浦の人々が嘆願書を提出し、釈放されましたが、2日後、光州に食料調達に出かけたまま尹は消息を絶ってしまうのです。


朝鮮戦争により孤児の数は膨れ上がり、1953年の休戦時には300人を抱えるまでになっていました。必死の捜索も虚しく尹の消息はつかめません。子どもを連れて日本への帰国を勧める声も多い中、「尹が20年続けてきた仕事を絶やすわけにいかない」という思いと、「真心と愛をもって孤児育成を尽くせば、必ず信じてもらえる」という強い信念が、千鶴子を奮い立たせます。毎日リヤカーを引き、食べられそうなものは何でももらい歩いていたといいます。孤児と共に過ごした基は、当時のことをこう振り返ります。


尹基=7月15日、東京、岡本美砂撮影


「母は特別なことをしたわけではありません。ただ、自分ひとりで力が足りなければ、理解者を訪ね、ためらわずに力を借りる勇気、子どもたちに与える三食の食べ物を懸命に求めた努力、病気になった子どもがいたら、口移しで食べ物を与え、子どもをおぶって夜中でも医者を訪ね、助けてくださいと哀願する真心と祈りがあっただけです」。

1963年、千鶴子は朴大統領から大韓民国「文化勲章国民章」を授与されます。日韓国交回復の見通しがたたず、反日感情も残る時代、「彼女は日本人ですよ」という高官に対し、朴大統領はこう答えたといいます。「我々が戦争をしている時、彼女は韓国の血一滴も入っていないのに、我が国の子どもたちを守ってくれた人類愛の人ではないか」。一方の千鶴子は、「この栄誉を受けるのは尹致浩です。私はただ主人の帰りを何とか守ってきただけですから。苦労は子どもたちがしました」と語ったそうです。


1964年、文化勲章の報告をするため帰国した千鶴子を迎えたのが、当時の内閣総理大臣 池田勇人や経団連副会長で日韓経済協会設立者でもある植村甲牛郎を始め、千鶴子を支援しようという政財界の人たちでした。これが、日韓国交を大きく前進させるきっかけにもなりました。
 

1965年、日韓国交正常化の年に千鶴子を病魔が襲います。肺がんでした。医師からは入院治療を勧められましたが、そのお金があれば共生園の子どもたちの生活や教育費に充てたいと断っていたそうです。1967年日本国政府は「紫綬褒章」を贈りますが、その伝達も病床で行われました。


田内千鶴子

田内千鶴子と韓国の孤児たち=社会福祉法人「こころの家族」提供

田内千鶴子と韓国の孤児たち=社会福祉法人「共生福祉財団」

田内千鶴子と韓国の孤児たち=社会福祉法人「こころの家族」提供

田内千鶴子と韓国の孤児たち=社会福祉法人「共生福祉財団」

田内千鶴子と韓国の孤児たち=社会福祉法人「こころの家族」提供


1968年、千鶴子は木浦の共生園に戻ります。せめて共生園の子どもたちに会わせてあげたいという配慮からでした。「尹鶴子」を名乗り、チマチョゴリを着て韓国人として生きてきた千鶴子は10月31日、波乱の生涯を閉じます。その日は56歳の誕生日でした。


11月2日木浦市民による初の市民葬が行われ、3万人が千鶴子の死を悼みました。清貧に生きた無名の日本人女性の死を新聞は「この日木浦は泣いた」と報じました。その後、彼女の生涯は1995年の映画「愛の黙示録」で広く知られることとなります。


社会福祉法人「共生福祉財団」の風景=社会福祉法人「こころの家族」提供


尹致浩と千鶴子の思いは、長男の基に引き継がれています。韓国では共生福祉財団として発展、日本では社会福祉法人「こころの家族」の理事長となり、介護福祉施設「故郷の家」を堺、大阪、神戸、京都、東京で展開しています。


尹致浩は「愛があれば人間の明日は心配いらない」という言葉を遺しています。身寄りのない孤児たちを実の子も分け隔てなく尹と千鶴子は愛情を持って育てました。その愛に応えるように、共生園から育った子どもたちが、共生園を支え、まもなく創立100周年を迎えます。


*この記事は、日本のコリアネット名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。

eykim86@korea.kr