名誉記者団

2022.09.02

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[東京=岡本美砂(日本)]


人生は選択の連続。なだらかな道もあれば、険しい道もあります。常に最も険しい道を選んだ人物こそ、乗松雅休(のりまつまさやす)かもしれません。彼は朝鮮の人々と共に生き、朝鮮の土となった日本人初の海外宣教師です。

「我らは豊臣秀吉の日本を憎む、伊藤博文の日本を憎む。しかし、名もなき乗松の日本を愛す。乗松雅休のような善良な日本人を愛す」。何が人々にそう言わしめたのでしょうか? 


乗松雅休肖像 常子夫人と長男由信、長女朝子

(左から)乗松雅休肖像、常子夫人と長男由信、長女朝子=キリスト同信会中野パークサイドチャーチ提供


乗松雅休(1863-1921)は、現在の愛媛県松山市で松山藩士の父忠次郎と母定子の一男三女の三子として生まれました。中学卒業後、上京し、神奈川県庁に就職。下宿先の女性が熱心な信者だったことが縁で、キリスト教と出会いました。1883年横浜海岸教会での「大リバイバル(信仰覚醒)」に触れ、1887年明治学院大学に入学、伝道者への道を志します。


1888年、プリマス・ブレズレン(Plymouth Brethren)のH.Gブランド(1865-1942)が築地で伝道活動を始めます。彼はケンブリッジ大学を卒業後、23歳で単身日本に渡ってきました。教派を否定し、手弁当で宣教に専念しているブラントは既存の教会からは敬遠される存在でしたが、教派主義的傾向に傾いていた教会の姿に反発を感じていた日本基督教会の青年の一部は、プリマス・ブレズレンに転じていきました。乗松も1890年春、所属していた日本橋教会を退会、大学も中退して仲間と共に国内伝道の旅に出ることになります。

1896年12月、乗松は単身で朝鮮へ渡ります。これが、日本人初の海外伝道となりました。乗松はなぜ朝鮮を目指したのでしょうか? 日本でキリスト教信者となった朝鮮の青年が、帰国して間もなく、禁令を犯したかどで死刑に処されたという話を聞いて心を動かされたという説や、日本に亡命していた朴泳孝(パク・ヨンヒョ)との出会いによるという説も伝えられていますが、乗松自身の証言が残されていないため、2人の方の意見をご紹介します。


「当時の時代背景も影響していると思うが、乗松は最も厳しい条件の下で伝道を行いたかったというのが、一番の理由ではないか」と語ってくれたのは、日韓キリスト教研究を行っておられる明治学院大学教授 徐正敏氏です。


乗松が朝鮮に渡った時期は、日本による植民地化が進みつつありました。福田賢太郎氏は「それを知った乗松兄は非常に心を痛められた。イエス・キリストに励まされ、導かれて、何人にも頼らず、朝鮮に渡られたものと思われる」と書き残しています。


3年後一時帰国した乗松は、1899年佐藤常子と結婚、再び朝鮮に戻り1900年8月水原に移住、伝道を再開します。乗松の人となりが伺える逸話を徐教授が紹介してくれました。「乗松は新婚の家の庭に柿の木を植え、数年後、柿が実るようになった時、彼はそれを収穫して、半分を隣の家に持って行きました。柿の木の根が地中で敷地の閾を越えて養分を得て実を結んだのだから、半分は隣の取り分だというのです。これに感動した隣人は、乗松の人柄と信仰に心酔し、彼の伝道を受け入れるようになったそうです」。人々が乗松に惹かれた理由の一つがこの「分かち合う心」にあるのではないでしょうか。

わずかな献金も自分より貧しい人々の救済に使い、自分たちは一日一食。朴魯沫は、乗松夫妻が飢えで祈るような姿で、部屋で倒れていたところを豆腐屋に助けられたというエピソードを残していますし、常子夫人は空腹を抱えた朝鮮の青年や集まった同僚伝道者たちに食べ物を提供するため、自分の髪を売ったことも一度や二度でなく、「いつも頭にスカーフを巻いていた」といいます。困窮した生活が身体を蝕み、1908年、夫人は幼い子ども4人を残して33歳の若さでこの世を去ります。


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1903年ソウル。ブランド邸にて=キリスト同信会中野パークサイドチャーチ提供


1903年、日本組合教会、メソヂスト派、日本キリスト教会が相次いで朝鮮での伝道を開始します。当時の日本キリスト者にとって朝鮮は、近代化に遅れた国で、宣教や教育を通して先導、啓導すべきという認識が主流でした。朝鮮総督府はキリスト教を積極的に利用、日本組合教会の朝鮮布教責任者 渡瀬常吉の下、1911年以後、徹底的な同化政策を取りました。


一方乗松は、相手を同化させるのではなく、自ら朝鮮人たらんと努めました。1903年浅田洋次郎は乗松宅を訪ねた時の様子をこう伝えています。
「水原の乗松兄の寓居を訪ねて感動せり。衣服も、食器も、悉く朝鮮式であるのみならず、その頃4~5歳の由信さんが、朝鮮語の他には語らざるを見て、乗松兄は愛するお子さんに朝鮮語のみを教え、日本語を教えなさらぬを知りて驚けり。これ乗松兄が朝鮮伝道の祝せられたる理由の一つと思えり」。


栗原包太郎は「たしか明治38年(1905年)であったと思う。乗松兄が朝鮮を立って日本に帰られる時、水原で送別の会がありました。日本人で集められた者は私一人でした。他は悉く朝鮮人で、20里30里(日本の2里3里)の遠方から草鞋ばきで集まってくる。朝鮮の兄弟らは涙を流して別れを惜しんだ。之を見て、私の心は非常に動かされました」。と綴っています。朝鮮の人々が乗松を愛した理由の二つ目は、相手に「寄り添う心」にあったといえるでしょう。


長年貧困と闘いながら伝道活動を続けてきた乗松の身体は結核におかされ、1914年日本への帰国を余儀なくされます。1921年2月12日「朝鮮に骨を埋めてくれ」と遺言し、小田原で57歳の生涯を終えました。遺骨は分骨されることなく、水原に埋葬されます。日本人の多くは朝鮮で死んでも骨は日本に持ち帰るのに、日本で死んで骨を朝鮮に葬る乗松のような人物は、前例がないと人々は驚いたそうです。この時遺骨を運んだのが、白洋舎の創業者である五十嵐健治でした。


乗松夫妻 記念碑

乗松夫妻の記念碑=キリスト同信会中野パークサイドチャーチ提供


葬儀の席で金太熙(キム・テヒ)は「イエス・キリストは神様であるのに、人とおなりになりました。この愛に励まされて、乗松兄は朝鮮の人を愛しました。世の中に、英国人になりたい人、沢山あります。米国人になりたい人、沢山あります。けれども、乗松兄は、朝鮮の人になりました。この愛は、いかなる愛でありましょうか」と泣きながら語りました。現在も乗松が設立した水原同信教会の敷地内に墓と乗松夫婦記念碑が建っています。


冒頭の「我らは豊臣秀吉の日本を憎む‥‥‥(中略)しかし、名もない乗松雅休の日本を愛す」という詩は、徐教授によれば、代々歌のように信徒に語り継がれてきたものだそうです。同時期に朝鮮に渡った日本人の多くが支配的な立場で接するのとは対照的に、寄り添い、献身する乗松の真摯な姿に多くの朝鮮の人が胸を打たれ、決して忘れまいと語り継いだのでしょう。
 
乗松雅休がこの世を去って101年。戦後建物は建て替えられましたが、古く質素な礼拝堂、果樹や野菜が植えられた庭など、水原同信教会は乗松がいた当時と変わらぬ風情を残しており、清貧を常とした乗松の精神が息づいているようです。激動の朝鮮半島で一世紀もの間、教会と墓、記念碑が大切に守られてきた事実こそ、乗松が朝鮮の人々に愛された何よりの証なのではないでしょうか。


*この記事は、日本のコリアネット名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。

eykim86@korea.kr