名誉記者団

2022.06.29

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[山梨=岡本美砂(日本)]

韓国ドラマやK-POPなど、日本で韓国の文化は日常生活に定着したと言っても過言ではありません。今から100年前、日本の統治下にあった韓半島に渡り、朝鮮の文化と人々を愛した兄弟がいました。

1918年に撮影した(左から)兄の浅川伯教、弟の浅川巧=浅川伯教・巧兄弟資料館


兄の浅川伯教(あさかわのりたか)(1884-1964)は、500年に及ぶ朝鮮陶磁史を体系づけたことから「朝鮮古陶磁の神様」と呼ばれた人物です。『釜山窯と対州窯』『李朝の陶磁』の著書を遺した、優れた研究者で芸術家でした。伯教の人間性と芸術性を伺わせるエピソードとして、朝鮮の人をモデルにした彫刻『木履の人』が帝展で入選した時、「朝鮮人と日本人との親善は、政治や政略ではなく、芸術で相通ずるのではなくては駄目だ」と語ったことが伝えらえています。

一方、弟の浅川巧(あさかわたくみ)(1891-1931)は、兄を追って1914年に朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験場に勤務。朝鮮を緑にしたいという夢を抱きながら、朝鮮の木工品や陶磁器に民族の魂を感じ、それを後世に残すために尽力した人物です。巧は著書『朝鮮の膳』の序文にこう記しています。「疲れた朝鮮よ、他人の真似をするより、持っている大事なものを失わなかったら、やがて自信のつく日がくるであろう。このことは、工芸の道ばかりではない」。

朝鮮時代の陶磁器「白磁」=韓国国立中央博物館


兄の伯教は、明治天皇に献上されるなど美術品として評価の高かった「高麗青磁」とは異なり、日常使いの「李朝(朝鮮時代の陶磁器)」に美を見出し、弟の巧は名もない職人が作る日常工芸品に魅了されました。二人は失われつつある朝鮮固有の美の発掘と保存に献身し、柳宗悦とともに「朝鮮民族美術館」を設立。後の「民芸運動」の先駆者となりました。

③ 参加者集合写真 浅川伯教・巧顕彰碑を囲んで

参加者集合。浅川伯教・巧顕彰碑を囲んで=18日、山梨、駐日韓国文化院


18日、駐日韓国文化院主催のフィールドワーク式講演会「道端の人文学」に参加し、浅川兄弟の軌跡を辿りました。「日本の中の韓国を訪ねる」この企画は、参加者に現地を訪れ、日韓両国の長い交流の歴史を再発見してもらうのが目的で、2年ぶりの開催となりました。


浅川伯教・巧兄弟資料館=18日、山梨、岡本美砂撮影


最初に向かったのは、山梨県北杜市にある「浅川伯教・巧兄弟資料館」。巧が遺した14冊の日記を金成鎮(キム・ソンジン)氏が高根町に寄贈したことがきっかけで開館した資料館です。


朝鮮で赤茶けた山の姿を目の当たりにした巧は、「土木を施すことは、地殻に彫刻すること。植栽をすることは、地表に彩色することだ(1914年6月13日)」と日記に記しています。その後巧は、在来種であるチョウセンカラマツの養苗に成功、韓半島の緑化に大きく貢献することになります。


⑤ 浅川巧の日記 

浅川巧の日記の一部=18日、山梨、岡本美砂撮影


一方、日記には苦悩する巧の胸の内も記されています。景福宮内に朝鮮総督府庁舎の建設が始まったのは1916年のこと。「景福宮が破壊されつつある。李朝時代の芸術、李朝時代の民族の美。景福宮の破壊を防止したいものだ(1920年1月3日)」。


1923年9月1日に発生した関東大震災直後の混乱の中、「朝鮮人が略奪・放火」「井戸に毒を入れた」等の流言が拡がり、多くの朝鮮人が殺害されつつあるとの報を受け「自分はどうしても信ずることができない。東京にいる朝鮮人の大多数がこまっている日本人とその家とが焼けることを望んだとは。僕は、朝鮮人の弁護をするために日本に行きたい気が切にする(1923年9月10日)」と記しています。


自らハングルを学び、民族衣装のパジチョゴリを身にまとい朝鮮の人々と親しく交流していた巧は、日本の官憲から理不尽な扱いを受けることも少なくありませんでした。自分と同僚の朝鮮人の給料に格差があることに心を痛め、人知れず朝鮮人を援助する等、心優しく正義感の強い人物であったことが伺えます。


④ 館長の説明に耳を傾ける参加者

館長の説明に耳を傾ける参加者たち=18日、山梨、駐日韓国文化院


館長の比奈田義彦氏によると、伯教からこの日記を託された金氏は、朝鮮戦争中、釜山に避難する時も「命の次に大切なもの」として守り抜き、高根町に寄贈する際、「韓国人を心から愛して下さった巧先生は、泥の池に咲き出た一輪の白蓮である」と巧を評したそうです。


⑦ 浅川兄弟が景福宮に設立した「朝鮮民族美術館」展示風景

浅川兄弟が景福宮に設立した「朝鮮民族美術館」展示風景=18日、山梨、岡本美砂撮影


⑧ 浅川伯教が35年もの歳月をかけて収集した陶片

 浅川伯教が35年もの歳月をかけて収集した陶片=18日、山梨、岡本美砂撮影


館内には巧の日記をはじめ「朝鮮民族美術館」展示風景、伯教が「陶片を読む」と名付けた調査方法で、35年をかけて韓半島の窯跡700カ所余りを訪ね歩き収集した陶片や愛用品等が展示され、兄弟の朝鮮での暮らしが再現されています。


浅川伯教・巧顕彰碑=18日、山梨、岡本美砂撮影


顕彰碑は浅川巧生誕130年にあたる2021年に、河正雄(ハ・ジョンウン)氏により寄贈されました。五重塔をイメージした碑石の下層は日本、上層は韓国産の石を用い、兄弟のレリーフが配されています。碑銘の「露堂堂」は、巧の人生を一言で表した言葉で、高校時代、河氏はこの言葉に出合い「浅川巧が人生の師、目標になった」といいます。そこには、巧のように二つの祖国を生きる人間として大切なのは、一切の虚飾を捨て、人として正しく真っすぐに生き抜くことだとの想いが込められています。

資料館見学の後、浅川家墓地と生家跡地に建つ記念碑を訪れました。
巧は1931年急性肺炎で亡くなり、ソウルの忘憂里共同墓地に埋葬されます。2012年公開された映画「道~白磁の人」では、40歳で急逝した巧を慕う朝鮮人が号泣しながら、棺を担ぐシーンが印象的に描かれています。


韓国の忘憂里共同墓地に設定されている浅川巧の墓碑=2019年、ソウル、聯合ニュース


今でも巧の墓は現地の人に大切に守られており、墓碑にはハングルで次のように刻まれています。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心のなかに生きた日本人、ここ韓国の土となる」。

今回のフィールドワークには、30名の定員に対し411名の応募があり、関心の高さを伺わせました。参加者のおよそ半数が映画を観ており、「映画を観て、もっと知りたくなった」と応募した人や「浅川兄弟について名前は知っていたが、今回色々説明を伺って、改めて感動した」という声が聞かれました。


日本の統治下で、朝鮮人と共に生きようと努めた二人は、同胞からの偏見や差別、朝鮮人からの拒絶という二重の困難に苦しみながらも、自らの信じる道を歩み続けました。国や民族の違いを超えた友好と共存の精神は、時が経っても決して色あせることはありません。「政治より文化が互いの理解を深める」。浅川兄弟は、そのことを私たちに問いかけているようです。


*この記事は、日本のコリアネット名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。

eykim86@korea.kr