文化

2014.03.13

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2014年は40周年を迎える歴史的出来事の多い年だ。今から40年前の1974年は、ソウルの地下鉄1号線が開通し、パク・クネ(朴槿恵)大統領の母親ユク・ヨンスさんが暗殺された年だ。また、韓国の音楽界を大きく変えた曲が誕生した年でもある。

当時の韓国は、まだロックやフォークというジャンルは馴染みが薄かった。レコード一枚も高価で手が届かず、人々は闇市で“海賊版”を買って聴いていた。正規品をオープンリールデッキで安いレコードにコピーして売る商売が盛況だった。そうした安いレコードは、壊れやすいものの、経済的負担が軽いので、音楽好きの人の多くは海賊版を買っていた。

「電気蓄音機」と呼ばれていたオーディオ機器は、なかなか手に入らず、一握りの人だけが楽しめるものだった。それでも、音楽は身近な人や大学生たちの間で広まっていった。当時はまだノレバン(カラオケボックス)もなかった。ノレバンが登場したのは1980年代後半からだ。ノレバンはなくても、レコードで音楽を思う存分楽しめる「音楽喫茶」があった。午前0時を過ぎると外に出られなくなる「夜間通行禁止」制度のため、夜11時30分が閉店時間だったが、その時間までは財布の中を心配することなく、高価なレコードを聴きながら思う存分音楽を楽しむことができた。

신중현의 첫 앨범 ‘히키-申: 키타 멜로듸’ (사진제공: 다음뮤직)

シン・ジュンヒョンのファーストアルバム「ヒキ-申:ギターメロディ」(写真提供:タウム・ミュージック)

1974年に最も人気があった曲を2つ挙げるとすれば、1曲は8月に発売されたシン・ジュンヒョンの「美人」、もう1曲はハン・デスの「水をくれ」だ。これらは、斬新かつ独特、ユニークな歌詞で大きな人気を博した。政治的メッセージは含まれていないが、民主化運動を展開する学生たちは替え歌にして歌っていた。

シン・ジュンヒョンの「美人」は、当時世界的に流行していたロック、パンクロック、サイケデリックのスタイルが垣間見える音楽だ。ハン・デスの「水をくれ」は、「アンプラグドで演奏する(エレクトロニック楽器を使わない)」フォークロックだ。この曲は、韓国に初めてフォークロックと「インディーズロックバンド」を紹介した音楽といわれている。

スタイルの全く違う2人のミュージシャンが歌ったこの2つの曲は、形式にとらわれておらず、現代的でありながら非常に伝統的だという特色を持っている。発売と同時に大ヒットしたが、残念ながらこの2曲は、政府によって放送禁止曲に指定された。音楽愛好家にとってこの2曲は、1974年の暗黒の時代に明かりを灯した曲だった。

当時馴染みの薄かったロックというジャンルを大衆に紹介したシン・ジュンヒョンの「美人」の特徴は、ロックとパンクロックの2つの音楽的カラーと韓国の伝統的なボーカルスタイルだ。伝説のパンクロックバンド「パーラメント」のような70年代のパンクロックを髣髴させるようなイントロのベースが印象的だ。パーラメントのブッチー・コリンズのベース奏法と韓国ロックが出会ったとでもいうべきだろうか。

シン・ジュンヒョンは、ハスキーで荒々しい歌声と、「ビートルズ」のヘルター・スケルター(Helter Skelter)を髣髴させる歌唱法で1小節を始める。「1度会って、2度会っても、また会いたくてどうしようもないよ~」。4小節が終わると、シン・ジュンヒョンの華麗なギターソロが入る。感覚的な奏法でベースと幻想的なコラボレーションへと続く。その後またボーカルが入る。間奏でベースソロが入り、2番が始まる。

この曲が発売されたとき、シン・ジュンヒョンは36歳だった。彼は朝鮮戦争(1950~1953)後に音楽界に入り、20枚余りのアルバムをリリースした。

1938年に生まれた彼にとって戦争と貧困の苦しみの中で、音楽は唯一のオアシスだった。17歳の1955年にエルビス・プレスリーに憧れて独学でギターを弾き始める。

他の歌手に楽曲を提供したが、詐欺によって代価を支払ってもらえないなど受難の連続だったが、音楽への情熱は冷めることがなかった。ロックバンドを結成し、他の歌手に楽曲を提供するなど、精力的な音楽活動を展開する。そして、1959年に自身のデビューアルバム「ヒキ-申:ギターメロディ」を発売する。

彼は1962年に韓国初のロックバンド「Add4」を結成し、1969年には映画「青いリンゴ」のサウンドトラックを担当する。

彼が本格的に音楽活動を展開するのは1974年からだ。

1974年8月に自身のバンド「シン・ジュンヒョンと葉銭たち」を結成し、アルバルをリリースする。バンド名をそのままアルバムのタイトルにした「シン・ジュンヒョンと葉銭たち」に収録された曲は、70年代のパンクロックと1968年の革新的なロックを韓国ロックと組み合わせた「サイケデリック・ロック」だった。

バンドのメンバーは、リードギターとボーカルのシン・ジュンヒョンとベースのイ・ナミ、ドラムのキム・ホシクだった。米国人ギタリストのジミー・ヘンドリックスが結成したバンドと同様の構成だ。ジミー・ヘンドリックスのバンドもリードギターとベース、ドラムという構成だ。素晴らしいギタリストが一人いれば、サイドギターがいなくても十分に多彩な演奏がこなせるというのがバンドの共通した考えだった。

「シン・ジュンヒョンと葉銭たち」のファーストアルバムは、発売当時500枚ほどしか生産されておらず、韓国に現存するアナログレコードの中で最も価値のあるものと評されている。そのアルバムのLP盤が1994年に発売された。

そのアルバムは、購入を望む人が多く、地球レコードを通して再び発売された。新たに制作されたアルバムでは、キム・ホシンに代わってクォン・ヨンナムが新たなドラマーとして加わった。地球レコードがもっと強烈なスタイルを要求したため、シン・ジュンヒョンはこれまでの曲をセルフカバーしたアルバムを発売した。

1974년 8월 25일 발매된 신중현의 20번째 앨범이자 그룹 ‘신중현과 엽전들’의 첫 데뷔앨범. 이 앨범의 첫 곡으로 ‘미인’이 실렸다. (사진제공: 다음뮤직)

1974年8月25日に発売されたシン・ジュンヒョンの20枚目のアルバムでバンド「シン・ジュンヒョンと葉銭たち」のデビューアルバム。このアルバムの1曲目に「美人」が収録されている(写真提供:タウム・ミュージック)


1曲目に収録されている「美人」は、発売と同時に学生や若者たちの間で大ヒットした。この曲は、1974年後半~1975年にずっとラジオで流れるほど大衆に支持された。

1975年末、シン・ジュンヒョンは思いもよらない依頼を受ける。大統領府からパク・チョンヒ大統領を賛美する歌をつくってほしいというのだ。彼は何の迷いもなくこれを断る。

それから間もなく、韓国の地と自然の美しさ、そして世界の「平和」を願って「美しい江山」を作曲した。

1975年12月に大麻事件にかかわったとして拘束され、それから2年間精神病院に監禁される。1977年に解放されたとき、彼の曲は依然放送禁止曲に指定されており、バラードとダンスミュージックがブームで、大衆はロックに見向きもしなくなった。

1974년 공연을 하고 있는 신중현과 엽전들. (왼쪽부터) 베이시스트 이남이, 드럼연주자 김호식, 그리고 리드 기타리스트 겸 보컬리스트 신중현. (사진제공: Bing Images)

1974年にコンサートをする「シン・ジュンヒョンと葉銭たち」。(左から)ベースのイ・ナミ、ドラムのキム・ホシク、ギター兼ボーカルのシン・ジュンヒョン(写真提供:Bing Images)


シン・ジュンヒョンとともに1974年に韓国の音楽界に大きな変化をもたらしたのが歌手のハン・デスだ。釜山出身の彼はニューヨークに移住してそこで小学校を卒業し、1961年に韓国に帰国してロックに魅了され、大学街で公演活動を展開する。26歳で海軍を除隊してすぐ新聞社「コリアヘラルド」の記者として活動し、その年にデビューアルバム「遥かなる遠き道」を発売する。そのアルバムの1曲目に収録されたのが「水をくれ」だった。

シン・ジュンヒョンの「美人」がジミー・ヘンドリクソンの「Purple Haze」(1967)を髣髴させるなら、ハン・デスの「水をくれ」はボブ・ディランの「John Wesley Harding」(1967)を髣髴させる。

彼の曲は、自由と幸福を願い、時には人間の悲哀が込められている。ハン・デスは、ボーカルだけでなく流暢なアコースティックギターの演奏も披露した。彼のファーストアルバムは大ヒットした。

大ヒットした「水をくれ」は、喉が渇いて水を求める男の叫びで始まる。「水をくれ。喉が渇いたよ。水をくれ~」。乾いた喉を何とかしたい「切羽詰った」感情が込められている。

「Sonny&Cher」や「Mama&The Papas」を髣髴させるギターの伴奏に合わせてハン・デスの憤ったような荒々しいボーカルが聞こえてくる。続いてベースの演奏が始まり、彼は人生の切実さと生存するために必要なことを含蓄的に表現した「水をくれ」をもう一度叫ぶ。ドラムの演奏は、「ビートルズ」のリンゴスターを思わせる。ハン・デスの泣き叫ぶような歌声は、まるで「ビートルズ」のジョン・レノンとオノ・ヨーコが「プライマル・スクリーム・セラピー(精神療法の一種)」を受けているときのようだ。アルバムのジャケットには、手で顔をつぶし、絶望にあえいでいるような意味不明の表情をしたハン・デスが写っている。

1974년 발매된 한대수의 1집 앨범 '멀고 먼 길'. 그의 곡들은 1980년대 후반까지 금지곡이 됐다. (사진제공: 다음뮤직)

1974年に発売されたハン・デスのファーストアルバム「遥かなる遠き道」。彼の曲は1980年代後半まで放送禁止曲に指定されていた(写真提供:タウム・ミュージック)


ハン・デスも当時政府の監視を受けていた。

当時、民主化、市民の自由、言論の自由を叫ぶ学生運動家たちは集会でハン・デスの曲を歌った。まるで国歌が斉唱されているかのように、民主化運動が行われている場所ではハン・デスの曲が響き渡った。学生運動家たちは警察の鎮圧に負けじと、バラバラにならないように肩を組み、ハン・デスの曲を熱唱した。彼らは正義と民主主義を熱望した。

自由な音楽活動ができないハン・デスは、ニューヨークに渡ろうと決心し、そこでバンドを結成して音楽活動を展開した。筆者が知る限りでは、ハン・デスは当時、ニューヨークで有名だったロッククラブ「CBGB」で韓国人として初めて公演した。

ハン・デスのもう一つの曲「幸せの国へ」は、これ以上「暗幕」で隠せない、「暗闇」のない明るい世界に対する願いが込められている。40年が過ぎた今、ハン・デスの公式ホームページの名称は「幸せの国」だ。

1974년, 당시 26세였던 한대수는 첫 데뷔앨범을 발매했다. (사진제공: 다음뮤직)

1974年にデビューアルバムを発売した26歳当時のハン・デス(写真提供:タウム・ミュージック)

現在の韓国は、政治的にも社会的にも、そして文化的にも40年前とは全く違う。韓国の文化と音楽は、この40年間で大きく発展した。韓国は今、世界の大衆文化を受け入れ、それをアレンジして「韓国のもの」とし、再び世界に輸出している。

某大学の最近の研究結果によると、韓国が輸入する米国の映画や音楽といった文化商品が75%を占めることがわかった。一方、日本、台湾、香港、シンガポール、中国に輸出される韓国の文化商品は82.3%に上る。欧米の文化を輸入し、「アジア風」にして再び他のアジアの国に輸出しているのだ。これは、韓国が民主主義を享受する国だからこそできるのだ。

ソウル明洞の地下商店街にレコードを販売する一軒の店がある。そこにはシン・ジュンヒョンとハン・デスのレコードはもちろん、古い時代のアナログレコードが陳列されている。

パッケージに傷一つないハン・デスのファーストアルバム「遥かなる遠い国」の価格は11万ウォンだ。40年前は放送禁止曲に指定されていたシン・ジュンヒョンとハン・デスの曲。今は彼らの音楽を思う存分聴くことができる。

コリアネット グレゴリー・イーブズ記者
gceaves@korea.kr