8月のクリスマス(1998)
ホ・ジノ監督
ソウルの町外れで小さな写真館を営む30代半ばのチョンウォン(ハン・ソッキュ)は、医者から余命宣告を受けていた。全てを受け入れた彼の日常は、ごく淡々としていた。好きな女の子の写真を拡大してほしいとせがむ男子中学生たち、若き頃の写真を復元してほしいという中年女性、一人寂しく来店して遺影写真を撮る老婆ら、周囲の素朴な人々と日常を過ごす傍ら、自分がこの世を去った後一人で暮らしていく父親(シン・グ)のためにビデオの操作方法をメモしておくなど、静かに死を迎える準備をする。そんなある日、元気溌剌とした駐車監視員のタリム(シム・ウナ)に出会い、彼の気持ちは微妙に揺れ動く。毎日決まった時間に写真館の前を通り、違法駐車車両の写真の現像を頼んでいくタリム。カメラにフィルムを入れてくれと唐突に頼んだり、駐車の取締りをしながらあった嫌な出来事を打ち明けたりする彼女が、チョンウォンには可愛くて仕方なかった。タリムとの思い出を一つ二つと重ねていたある日、チョンウォンはついに病院に搬送される。それを知らないタリムはいつものようにチョンウォンの写真館を訪れるが、写真館は何日もずっと閉まったままだ。チョンウォンがこの世を去った後、写真館の前を通り過ぎようとしたタリムは、写真館の前にある自分の写真を見て微笑む。
映画評論家、イ・ヨノの評論 新たな感受性が光るメロドラマの秀作。ホ・ジノ監督の「8月のクリスマス」を説明する最も普遍的な評価だ。しかし、このときに働くメロドラマというジャンルの分け方は、この映画に漂う愛の雰囲気は伝えるが、その下に違う系列で組み込まれた繊細な波長は説明できない。もしかしたら、映画では最も大事な美徳でも、あまりにも当たり前すぎて言い出せない言葉。ありきたりなようで決してありきたりではない言葉。それが「映画的」という言葉ではないだろうか。「8月のクリスマス」は私にとってそんな映画だ。映画的な映画、映画的なデビュー作、映画的なメロドラマ。1998年に公開されたホ監督のデビュー作でしかもメロドラマなので、その「映画的」という表現が一層貴重に感じられた映画だ。
もちろん、こうして記憶されるのには、メロドラマに対するいくつかの偏見が働いたことを否定することはできない。熱くセクシーなラブシーンとその愛を妨害する冷めた障害物のしのぎを削る戦い。その中で台詞はありふれ、出来事は軽はずみで、情緒は常套的で、スター・俳優は大げさになりやすいのだ。しかし、そのメロ映画が生み出す不協和音のくずが、それをもたらした社会の背後を攻撃しながら塊を成していく。だが、興味深いことに、こうしてメロドラマに対する一般的な観点を羅列してみると、むしろ「8月のクリスマス」が反メロドラマの手法によって制作されていることがわかる。それが当初からこの映画をメロドラマというジャンルに分類した意図で(実はこれを分類したのは私ではない。映画の企画当初から制作会社が意図したもので、公開した映画館が強調したものであり、映画史がそのように分類したのだ)、まるで映画的な映画とメロドラマが反対の陣営に置かれたような配置になっている理由でもある。
「8月のクリスマス」がメロドラマから映画的な映画になった理由は、意外と単純だ。まず、ここに若干のメロはあるものの、ドラマはほとんどない。従って、死を目前にした写真館の店長チョンウォンと駐車監視員のタリムの間に感情のやりとりは明らかに存在するが、それをチョンウォンの最後の愛ととらえるにしても、タリムの初恋ととらえるにしても、解釈の幅を広げておいて特別なドラマにはしていない。二人の愛は運命的なものではなく、日常の中で感じる愛情に似ている。その小さな愛情は、一緒にアイスキャンディを食べたり、スクーターに乗ったりする触れ合いの中で少しずつ進展する。感情(メロ)はあるが、感情操作(ドラマ)がないというのは、この映画を余韻は強いが退屈にする要素でもある。しかし、テレビドラマでは見られない退屈さと無神経さが、他のものに目を向けさせている。それは人物の後姿から、縁側に落ちた光から感じられ、底知れない深淵を形成する。
もう一つ「8月のクリスマス」にないものは、日常のスタイル化だ。何でもない些細なことばかりで映画を制作した場合、映画をそれ自体の力だけで成り立たせるには、技巧と形式主義的誘惑がどうしても必要になる。それは、日々の生活の繰り返しという慣用句として頻繁に登場し、物語の展開を遅くしたり、空回りさせたりする。しかし、ホ監督はその境界を知り尽くしているかのように、もう少し押し込んでその域に辿り着くか、場合によってはその域で止まる。写真館に飾られた女性の写真を活用することを例に挙げてみよう。チョンウォンの初恋の人だったチウォンが訪ねてきた後のいくつかのシーンだ。まず、写真館を掃除しているチョンウォンの姿が、水の流れるガラス窓越しに見える。次のシーンでチョンウォンがバスに乗って病院に向かうとき、「サヌルリム」の曲「窓越しにぼんやり昔のことが思い出されるでしょう」がラジオで流れる。このときにチョンウォンがふとつぶやいた独り言から、私たちはチウォンが写真館のガラス窓の自分の写真を外してほしいと言ったことを知る。そしてチョンウォンは言う。「愛もいつかは思い出となる」。
だが、後に同じように写真館に飾られるタリムの写真は正反対の役割を果たす。チョンウォンの死を知らないタリムは、写真館に石を投げて怒りを表すが、ある日、写真館に飾られた自分の写真を見る。このとき、タリムが浮かべた笑顔は愛への確信だ。チョンウォンの事情を知っている私たちは、タリムの笑顔に胸を打たれるが、監督はそこまでしか見せない。こうして写真館の店主がガールフレンドの写真を撮る日常を、ややこしい説明なくさらりと抜いたり、適切に入れたりすることで濃いパトスを感じさせている。決定的なのは、「8月のクリスマス」には死の事件化がないことだ。恐らくこれがそれまでのメロ映画と最も違う点だろう。限られた人生のラブストーリー、常套と大げさがつきものの切迫した感情と時間。しかし、ここでは死が事件を作ることも、感情を搾取することもない。
予定された死を知るのは当事者である主人公だけで、彼は一人で苦痛に耐えるからだ。チョンウォンは時折友人と酒を飲んだり、布団の中で人知れずすすり泣いたりするが、自身の死よりもその後に苦労するであろう家族のことをもっと心配する。そうして、チョンウォンの気持ちを封印してしまった死は、周りの人と風景、ものごとを淡々としつつもぼんやり映るようにする。特に、この映画を最後にこの世を去った撮影監督のユ・ヨンギル氏による繊細な映像は、ものになったチョンウォンの時空を通じ、人物の内面に起こる感情の変化が表現されている。そうした中で、年老いた父親のためにビデオの操作方法を細かくまとめておくチョンウォンの気持ちは、彼の手の届くものを通過してさらに強烈な印象を残す。結局、映画的な映画というのは、長い期間が経過した後に物語の記憶がほとんどなくなったときに再び蘇る、一種の持続によって決まるものではないだろうか。「8月のクリスマス」といえば、真っ先に思い浮かぶのが、縁側で猫背の肩をすくめて足の爪を切っていた男だ。刻一刻と死が近づいているにもかかわらず伸びる足の爪のように、彼はもの静かだがあまりにも若かった。
*資料出所:韓国映像資料院