文化

2017.02.15

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[ソウル=キム・ヨンシン、キム・ウニョン、キム・ヨンア]
[写真=チョン・ハン]

ソウル市冠岳区(クァナクく)は、住民の豊かな精神生活のために、歴史、文学、神話、旅行、映画など様々なテーマの人文科学の講義を提供している。

2月13日、冠岳区の生涯教育館では「ソウル、過去への時間旅行」というテーマで歴史評論家でありながら古典研究家でもある韓晶周(ハン・ジョンジュ)作家が講義をした。彼は『号、朝鮮ソンビのプライド』『朝鮮を救った13人の経済学者達」『朝鮮の巨商(大商人)、経営を語る』『韓国史、戦争の技術』など韓国史を多様な視点から見る書籍を執筆した。

13日、ソウル市冠岳区の平生教育館(ピュンセンキョユクグァン)で「号、朝鮮ソンビのプライド」をテーマとして講義をしていたハン・ジョンジュ作家

平生教育館で「号、朝鮮ソンビのプライド」というテーマで講義をしたハン・ジョンジュ作家=13日



この日の講義のテーマは、作家の著書のタイトルでもある「号、朝鮮ソンビのプライド」だった。
彼は、講義で「朝鮮時代のソンビの呼称の一つである「号(號、ホ)」を通じて、個人の考えや個人史を越えて朝鮮史までをもうかがえる」と述べた。彼は朝鮮ソンビの号を「自分と縁があったり居住している場所の地名、大切にしていたり好きな物、これまでの人生で得た悟りや目指す意志、自身の置かれた状況や立場、容貌や身体的特徴、尊敬する人や手本となる人物、職業、昔の書籍や文献、古典から取った名前」など8つのタイプに分けて紹介し、その人物についての逸話を簡単に話した。

「号」は自分の思考、意思、意見を表すため、自分を表現するに有用な呼称であると述べた韓晶周作家

「号」は自分の思考、意思、志を表しているため、自分を表現するに有用な呼称であると述べた韓晶周作家=13日



ソンビの人生について彼と話し合いながら朝鮮文化への理解が深まった。

-「 号 」の意味は?また、現代人にとって「号」とは?

朝鮮のソンビは最低3つの名前を持つ。生まれた時につけられる「名」、成人式以降に与えられる「字」、自分の心や思考を表す「号」である。現代に例えると、ニックネームと似た概念である。本人の意思と関係なく周りの人につけられた「名前」とは違って、「号」は自ら名づけて本人の思考、意思、志、理念などを表せるし、複数使用可能である。そのため、自分を表現するのに有用であり、適切な呼称文化と言える。現代でも、自分を表現して存在感を現わしたい根本的な欲求を満たすために使うことができるだろう。

-一番印象深い「号」は?

個人的には「オウダン(於于堂)」という「号」がおもしろいと思う。ユ・モンイン(柳夢寅、1559〜1623)と呼ばれるソンビの「号」だが、無駄話で皆を惑わすという意味である。ユ・モンインは当代の人々が受け入れがたい精神世界を持っていた人であった。両班士大夫(貴族階級)が野史の講談を集めて編纂したこと自体が、当時の人々には容認できない行為だった。逆説的に彼の「号」は「他人の誹謗と非難を気にしない」という意思を表していたと考えられる。

-特定の地名を号にしたソンビがいると紹介していたが、その中の何ヶ所を紹介するなら?

茶山 丁若鏞(ダサン チョン・ヤギョン、1762~1836)の他の号でもある京畿道(キョンギド)南陽州(ナムヤンジュ)の與猶堂(ヨユウドウ)がある。與猶堂は、冬に薄氷を踏む思いで気をつける、また誰かが自分の事を見ていると思って慎重に警戒するという意味だ。正祖(チョンジョ、朝鮮王朝第22代の王、1752~1800)死亡以後、丁若鏞が属していた党派が政治的に窮地に追い詰まれたが、與猶堂はそのような思いで生きていくという意味だと考えられる。

-ソンビの残した足跡を見つけることのできる場所はあるか?

踏査に行った時、先祖の記録と一緒に見れば想像力が刺激される場所がある。丁若鏞が書いた『遊洗劒亭記(ユセゴムジョンギ)』に登場する洗劒亭(セゴムジョン)がその場所だ。梅雨時、夕立が降ると城下で遊び歩いていたソンビが洗劒亭に集まって酒を一杯ずつ飲んだという記録がある。今は開発されて水勢が弱いが、当時は雨が降ると洗劒亭の前の川の流れは激しくなり滴が跳ね、楽しみを与えたという。
残念ながら漢陽(ハニャン)跡にあった文化資産は、近代化が進むにつれ多くが失われた。しかし、ソウル市の外には一度行ってみる価値のある場所がまだある。栗谷 李珥(ユルゴック イイ)と関連した花石亭(ファソクジョン)、紫雲書院(ジャウンソウォン)などは京畿道の坡州(パジュ)に残っている。

-現在、師任堂(サイムダン)を取り上げたドラマが放映中だ。栗谷と母親、申師任堂(シンサイムダン)はどんな人物か?

栗谷 李珥は母親の申氏と16歳で死別し、その後3年間の彷徨い、19歳の時に金剛山(クムガンサン)で出家した。野史によると李珥が出家した当時、老僧達が一生修行しても悟ることのできなかったことを見抜いた李珥を生きた菩薩であると僧侶たちが仕えたという話がある。彼は若くしてすでに非凡な精神世界を持っていた。

20歳で彼は還俗して人生の指標にする『自警文(ジャギョンムン)』11ヶ条項を作った。その1番目が大きな志しを立てて聖人を標準にする、そうして一つも聖人に追いつけなかったなら、それは人生をしっかりまっとうしたとは言えないということだった。科挙合格や出世ではなく聖人になりたいという高い志を立てることのできた背景には、おそらく母親の申氏がいたのだろう。

栗谷は母親以外に師匠として仕えた人はいなかった。栗谷の母申氏の号である師任堂「サイムダン」は孔子が聖人に仕え、尊敬した周の文王の母太妊のようになりたいという意味だ。そんな大きな抱負を立てた母から教育を受けたため、李珥が10代の若さで広い精神世界を持つようになったのではないか。

-最近『朝鮮最高の文章、李徳懋を読む』という本を書いたが、李徳懋はどんな点で注目すべきか?

李徳懋(イ・ドンム、1741~1793)も性理学者だか、個性ある学者だった。性理学者は経典に根拠した文体で文を書くべきである。しかし、李徳懋はこのような法則に従わない革新的な文章を書いた。また、李徳懋は性理学の書籍のみに没頭せず、百科事典のような知識を探求した学者で、それまでとは異なるタイプの知識人だった。

-今まで韓国史について色々な主題の本を書いたが、次はどんなテーマで書く予定か?

18世紀の韓国の飲食文化について書こうと思っている。韓国学を勉強したために、原形と変形を区別できないことがある。私たちの固有の歴史と外部からの影響を受けたものを区別するには、近代以前と以降の文化を分けて理解する必要がある。近代以前の文化を追跡できる記録が一番多く残っている時期がまさに18世紀であるため、その時期に注目するようになった。18世紀は近代以前と近代をつなげる転換点だと思う。


冠岳区の平生教育館では「ソウル、過去への時間旅行」の他にも様々なテーマの人文学講義を行っている。ハン・ジョンジュ作家は今月20日にも講義を行う予定。冠岳区で提供する講義の情報は冠岳区庁のホームページ(http://www.gwanak.go.kr/) で確認できる。 .

eykim86@korea.kr