(左)ディルクシャの外観と内部の様子
イ・フェヨン記念館の外部の様子
独立のために全財産を捧げた6兄弟、イ・フェヨン記念館
イ・フェヨン記念館は、すべてをかけて独立運動を行った6兄弟(イ・ゴンヨン、イ・ソクヨン、イ・チョルヨン、イ・フェヨン、イ・シヨン、イ・ホヨン)を称える場所だ。
兄弟は、名家の出身だったが、1910年に朝鮮が日本の支配下におかれると、6兄弟は、全財産を処分し満州に向かった。急なことだったため、処分の際に捨てざるを得なかったものもあったが、それでも40万ウォン用意した。今なら約600億ウォンに当たる金額だ。適正価格で売れていれば、全財産は約2兆ウォンになっていただろう。
イ・フェヨンは、この40万ウォンで満州に新興講習所(以後、新興武官学校)を設立し、10年間で独立軍3500人を育成した。1920年にあった青山里(チョンサンリ)戦闘と鳳梧洞(ボンオドン)戦闘の主役たちも、新興講習所の出身だ。しかし、日帝の弾圧と財政難により、廃校になってしまった。イ・フェヨン一家の莫大な財産は底をつき、6兄弟は、まともな食事もできないくらい貧しい生活を送った。
イ・フェヨンは、日本軍司令官の暗殺計画を立てていたが、厳しい拷問の末に獄死した。6兄弟のうち、長男のイ・ゴンヨンと三男のイ・チョルヨンは病死し、次男のイ・ソクヨンは飢え死にした。末っ子のイ・ホヨンは、一家全員が行方不明となった。結局、生き残って光復後に韓国に戻ったのはイ・シヨンだけであった。
イ・フェヨンと5人の兄弟は、全財産で新興武官学校を設立し、多数の独立軍を育成した。
(左)京橋荘の外観と臨時政府庁舎内部の応接室
大韓民国臨時政府の最後の庁舎、京橋荘(キョンギョジャン)
現代的な病院の間に建つ、西洋古典主義様式の豪邸が目を引く。独立後、大韓民国臨時政府が活動した空間であり、金九(キム・グ)主席が逝去した場所だ。
完成当時の1938年には、元日本公使だった竹添進一郎の名前から「竹添莊」と呼ばれていた。 日帝強占期(日帝時代)に、鉱山業で富を築いた親日派のチェ・チャンハクが建てた家だった。 光復後、チェ・チャンハクが中国から帰国した金九主席が滞在できるように提供した。
以降、金九主席が「京橋荘」と改名し、臨時政府庁舎として使われた。臨時政府の国務委員会が開催されたことで、信託統治反対運動の舞台となった。
1946年6月26日、統一政府を樹立するために尽力したキム・グ主席が、アン・ドゥヒの銃に撃たれ、命を失った。
京橋荘は、現在、歴史展示館として運営されている。
京橋荘の2階の窓に、キム・グ主席が撃たれた銃の跡が再現されている。