【文・写真=大草紀子】
韓国の慶州(キョンジュ)、日本の奈良、中国の揚州。
長い歴史と文化遺産を持つこの3都市を、新聞記者やインフルエンサーが10日間共に旅する『東アジア文化都市・メディア&インフルエンサーツアー』が4月19日〜29日に行われました。
このツアーは、韓国ソウルに事務所を置く三国協力事務局の主催、各国の自治体の協力によって開催されました。今までは日中韓の新聞やテレビの記者たちが共に参加するメディアツアーが行われていましたが、今年は初めてインフルエンサーも加わったツアーとなりました。
慶州の月精橋の前で行われた開幕式
☀ 東アジア文化都市とは
ツアーの内容に入る前に、『東アジア文化都市』について少し紹介します。2014年から毎年、日中韓の各国から1都市を『文化都市』として選び、文化行事を開催してきました。京都、敦煌、大邱などが過去に選ばれています。欧州にも『欧州文化首都』事業がありますが、それと似たような事業です。
今年は『東アジア文化都市』事業が始まって10年目になるので、それを記念して、今までの文化都市の中でも特に繋がりが深い慶州、奈良、揚州を一度に巡るツアーが行われることになったのです。
各国から4〜5名のメディア関係者や有名インフルエンサー、そして文化に関する専門家もアドバイザーとして参加しました。その中には、2150万人以上のフォロワーを持つ韓国でフォロワー数3位のTikToker、ユ・オンさんや、Bilibili(中国の動画プラットフォーム)の10周年に世界で8名しか選ばれない特別賞を受賞した日本人インフルエンサーの山下智博さんなどもいました。
揚州のチェ・チウォン記念館にあるチェ・チウォンの像。背景は彼が見たであろう揚州の風景(左)、揚州の鑑真紀念堂にある鑑真和上の像
☀ 三都市をつなぐ二人の偉人
慶州、奈良、揚州の3都市は古代から貿易や文化の交流がありました。そして、この3都市を繋ぐ重要な歴史上の人物が2人います。韓国人のチェ・チウォンと中国人の鑑真です。
鑑真は日本人には馴染みの深い人物でしょう。奈良時代に日本に渡り、日本人に仏教を伝えました。それに比べ、チェ・チウォン(崔致遠)は日本ではあまり知られていないと思いますが、韓国ではとても有名な人物です。慶州で生まれ、12歳で中国の揚州に渡って学問を納めます。揚州で科挙に合格し、官吏になり、文芸家としても名を残しました。
今回の旅は、国を超えて東アジアの人々に大きな貢献をしたこの2人の足跡を辿る旅ともいえました。そして、2人の偉業を後世に伝えるために、たくさんの人々が尽力したことを知る旅でもありました。
☀ 慶州
旅の始まりの慶州では、ツアー参加者たちは熱烈な歓迎を受けました。月精橋の前でツアー開催のセレモニーが行われ、慶州市民も参加してくれました。
そして、慶州の観光では外すことのできない国立博物館、世界遺産のヤンドンマウル(良洞村)、仏国寺、東宮とウォルジ池、天馬墓、展星台などを回り、キョチョンマウル(慶州校村マウル)では伝統結婚式の体験もさせてもらいました。
全員伝統衣装を着て、結婚式の体験。観光客に本当の結婚式と間違われてお祝いの言葉を言われる一幕も(上)、最近は韓国でもあまり行われなくなりつつある「べべク」の儀式
伝統結婚式で花嫁の衣装を着た中国人ジャーナリストのシン・フェンさんは「私たちの伝統結婚式とよく似ている。私たちもこういう赤い衣装を着るし、中国の文化が韓国に伝わっていったことがよくわかる」と言いました。
慶州校村マウルもですが、慶州にはチェ・チウォンとその子孫にまつわる場所が数多くあります。そして、慶州の人々の口から彼の名前が何度も出たので、慶州の人が彼のことをとても大切で、誇りに思っていることが伝わってきました。
☀ 奈良
奈良では、東大寺、唐招提寺、大和文華館、平城宮跡歴史公園、奈良町などを巡りました。東大寺のお寺の前にはインド、中国、韓国から運んできた石が敷いてあります。これは仏教の伝達のルートを表しているのだそうです。また、東大寺は2回焼失し、その度に人々の力を合わせて再建したお寺です。当時の人々の仏教への思いとそれを日本に伝えた人々の力に参加者たちは思いを馳せました。
唐招提寺は759年に鑑真によって建てられました。ここには鑑真和尚の像が残されています。鑑真は日本に来る前、揚州の大明寺の住職をしていたので、唐招提寺には大明寺の面影が残っているとのことでした。私たちはこの後、揚州で大明寺を見ることになっています。
2008年5月、中国の胡錦濤首席が奈良を訪れた時に、唐招提寺を訪問されています。今回のツアーのアドバイザーでもあるワン・ユシン元揚州市長は、この時に胡錦濤首席と一緒に唐招提寺を訪れたそうで、当時の思い出を懐かしく語ってくださいました。
東大寺では特別に一般の方が入れない大仏の近くに入らせていただき、住職のお話を伺っている様子(左)、平城京跡歴史公園で、タイムスリップした気分を味わう参加者たち
☀ 揚州
旅の最終目的地、揚州は、水の都といわれ、痩西湖の景観に心奪われる、本当に美しい都市でした。中国で一番明光風靡だと言われる痩西湖の庭園の中にある盆栽の博物館や大明寺、中国大運河博物館などを巡りました。
大明寺の中に、私たちが旅の中で何度も名前を聞いた鑑真の記念堂とチェ・チウォンの記念館がありました。
☀ 鑑真とチェ・チウォンの見た風景
鑑真は揚州の出身で、50歳の時に日本の招きで仏教の伝道に向かいます。しかし、航海は何度も失敗し、753年に6度目の航海でようやく日本に辿り着きます。彼は視力を失いますが、亡くなるまでの10年間に仏教の伝道や唐招提寺の建立のみならず、中国文化の紹介にも力を尽くしました。鑑真記念堂は彼の功績を記念して1973年に建てられました。
飛行機でその日のうちに奈良から揚州に来られるばかりでなく、オンラインで国を超えて簡単に繋がることができる私たち。この頃の時間や空間の感覚は、現在とどのくらい違うのだろうということが、参加者の間で話題になりました。当時、中国から日本に行くということは、文字通り命を懸ける旅だったに違いありません。
鑑真の記念碑の前で(左)、チェ・チウォンの障害が細かに記されていたチェ・チウォン記念館
チェ・チウォンも同じく、慶州から揚州という長い旅をしてこの地に辿り着きました。12歳だった彼は、中国語を学び、学問を修める中で何度もホームシックに襲われたそうです。そんな彼に、故郷、慶州の父親は「試験に落ちたら、韓国には二度と帰ってくるな」と言ったそうです。現代の韓国社会を思わせるような気がしないでもないですが、そんな中、彼は試験に合格して官吏になり、また文学の才能を発揮していくつもの書物を表し、揚州で多くの貢献をしました。
慶州、奈良、揚州を巡ってきた私たちは、鑑真とチェ・チウォンが見てきた風景を同じように目にすることができました。1000年の時を超えて、私たち日本、韓国、中国の仲間が横に並んで同じ光景を眺め、会話することができるのはとても不思議で幸せなことに感じました。
☀ 「共同文化・共享未来」 東アジア文化シンポジウム
10日間の旅の終わりは3都市の市長や要人も招いたシンポジウムで締めくくられました。参加者は旅を振り返り、今後の3カ国の交流の展望を語りました。
慶州・奈良・揚州の3都市の市長や文化専門家も参加し、良い議論が重ねられたシンポジウム。若者の民間交流が大切だという言葉がいろいろな人から出た。
韓国のユ・オンさんは、日中韓は家族のようなものだと言いました。
「知らない人に文句を言ったりしないが、家族や親しい人だからこそ、違いが気になったり、自分のことをわかってほしくて余計なことを言ったりする。家族との縁は切っても切れない。私たちは縁を切ることができない隣人だということを理解して付き合おう」
という言葉に、会場の人たちは大きく頷きました。
日本の山下さんは、揚州の痩西湖でボートツアーをしながら、ライブストリーミングをしたところ、トータルで5万人の視聴者が見てくれたと話しました。
「インフルエンサーが視聴者に発信していくときに、3つの壁があります。文化の壁、知識の壁、感情の壁です。これをいかに超えていくかということを考えています。今回の旅でライブストリーミングを通じて僕と視聴者は中国の文化を新たに一緒に学ぶことができました。 今後、日本、韓国、中国のインフルエンサーバンクを作って、お互いに協力や交流をしながら、相互の文化を分かち合って共に前に進んでいけたらいいと思います。」
と、インフルエンサーの立場から新たな文化協力のかたちを提案しました。
多くの人から、ネットの世界では日中韓の対立があったり、誤解が生まれたりしがちだが、現実の民間交流は政治の世界の冷え込みを乗り越える力がある、特にこれからの時代を担う若者は、お互いの違いを認めながら共に進むことが必要だという声が聞かれました。
ポストコロナ時代に、直接の交流は大切ですが、それを伝えるメディアやインフルエンサーの担う役割も大きいと改めて実感することができたツアーでした。
*この記事は、日本のコリアネット名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。
km137426@korea.kr