オピニオン

2020.02.20

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保坂祐二 

世宗大学教授(政治学専攻)


最近、東京五輪での旭日旗使用に関する問題が相次いで提起されることを受け、日本政府は反証探しに奔走している。


その代表的な例が、昔の絵画をはじめとした美術品を調査し、旭日旗は古来から日本で使われてきた伝統的な旗であることを証明しようとするものである。その調査により、旭日旗が1870年に旧日本陸軍旗に指定されるずっと前から日本国民の間では広く使われていたことを証する狙いがある。

しかし、このような日本の「努力」は、成果をあげていない。なぜなら、旭日旗が日本で多く使われた時期は、1870年に旧日本陸軍旗に指定されて以来であるためだ。


だが、何とか探し出せた2点の絵画がある。その一つは、1853年から7年にわたって大阪の100の名所を描いた「浪花百景」である。その中の、「三大橋」に、旭日の模様が描かれていると日本政府は主張する。太陽の半分が地平線上に見え、その太陽が17本の光を放っている。日本政府は、この絵の旭日旗の模様が、1870年以前からすでに存在していたと主張する。だが、旭日の模様が日本において大衆的なものであるならば、「浪花百景」の100枚の作品のうち、なぜ一つの絵にしか旭日が描かれていないのか、理解しがたい。つまり、これは1870年以前には、旭日模様があまり使われていなかったということである。

日本政府が探し出したもう一つの絵画は、19世紀に制作された「福神魚入船」。水平線の上に太陽が約半分見えていて、太陽から7本の光線が出ている。

しかし、これらの絵画も決定的な証拠として使うことはできないということである。両作品とも、太陽や光線の形が本来の旭日旗のそれとは違うからである。

旭日旗は、真ん中の太陽から16本の光線が伸びているものでなければならない。もちろん、その形を基本とした様々な模様を作ることは可能であるが、旭日旗は、天皇家を表す紋章である「菊花紋章」の16枚の花びらに基づいて作られたため、その根本を揺るがすことは不可能である。

1870年6月13日、日本政府は旭日旗を「陸軍御国旗」として制定した。この旗は、太陽を中央に置いて、太陽光線の数を王室の紋章と同様の16本にした。これは、陸軍省の前身である兵部省で考案された。

当時の兵部省の実務は、3人の次官が担当していた。その3人は江戸幕府を打ち倒して、明治新政権を築いた長州藩出身だった。3人の中で中心となるのは「大村益次郎」という人物である。彼は、江戸幕府を打倒し、近代日本軍隊の母体となった長州藩騎兵隊の中心人物でもある。

1869年、大村は、国家のために殉難した死者を奉祀する「東京招魂社」という神社を設立し、王室の菊花紋章と同じものを東京招魂社の文様に決めた。その後、1879年に靖国神社と名前が変わり、菊花紋章が靖国神社の文様となった。

1869年に菊花紋章が靖国神社の前身である東京招魂社の文様になった後、1870年に兵部省の人たちが、天皇家の菊花紋章と東京招魂社(=靖国神社)の紋章を土台にして、旭日旗を日本陸軍の旗として正式に考案したのだ。靖国神社で菊花紋章や旭日旗のバッジを販売したり、お守り・お土産などを販売していることもこのような歴史が反映されたものである。

旭日旗の本質は、天皇の紋章であり、靖国神社の紋章にあると言っても過言ではない。靖国神社の教えの中には、戦犯という概念が存在しない。だからこそ、靖国神社は泰然としてA級戦犯を祭神として合祀しており、過去の侵略戦争を否定する。

結局、旭日旗は天皇家の菊花紋章と靖国神社の紋章を土台にして作られ、結果的に靖国神社に象徴されるように日本侵略の象徴物である。そのような理由から、世界的な平和祭典であるオリンピック会場で使われるには不適切である。


国際サッカー連盟(FIFA)は、競技場の安全警備規定第60条2項で、「攻撃的・挑発的な内容の横断幕や旗など」の使用を禁じている。
日本サッカー協会(JFA)も、「試合運営管理規定」第4条に「政治・思想・宗教・軍事的な主義、主張、観念を表示、若しくは連想させるような(中略)旗、プラカード、ゼッケン、文書、 図面、印刷物等」の持ち込みを禁じており、このうち「軍事」という言葉は2010年2月に追加された。

上記の背景と流れから、国際オリンピック委員会(IOC)は、FIFAに従って、平和を壊す「軍事」と「侵略」の意味を持つ旭日旗を試合場で使えないよう、旭日旗の全面使用禁止の決定を早く世界に公表すべきである。