ひと

2014.03.04

国全体が砲弾の渦に巻き込まれていた1950年代から国民所得が2万5千ドルを超えた現在に至るまで、激動の韓国社会を生きてきた青い目の外国人がいる。カトリックの牧師として韓国を訪れて以来、韓国人をこよなく愛してきたアイランド人のマックグリンチー神父だ。彼は1954年に済州島に赴任して以来約60年間そこで暮らしている。セイント・マックグリンチーと名前のパトリック・ジェームズのイニシャルをとって「イム・ピジェ」の韓国名を名乗り、この地の人々と苦楽をともにしてきた。

済州特別自治道済州市翰林邑のセイント・イシドル牧場。約160万平方メートルの草原に酪農牛約900頭、肥肉牛約350頭、競走馬約100頭が飼育されている。済州島の酪農業の元祖と呼ばれる場所だ。

アイルランドの25歳の若者が済州島にやって来たとき、そこは不毛の荒地で、住民たちは極度の貧困にあえいでいた。彼は貧困撲滅の最初の事業として、翰林邑今岳里の荒涼な地を開墾した。セイント・イシドル牧場の出発だった。彼は農民たちに牧草地の改良法や家畜の飼育法を教えるなど、農民たちが自立できるよう指導した。中山間の不毛の地を開墾して草原をつくり、畜産業や酪農業などを導入して農家自らが自立するための基盤を築いた。また、4Hクラブの組織を構成するとともに、済州島最初の信用協同組合「翰林信用共同組合」を設立した。

임피제 신부는 1954년 제주에 부임한 이후 60여 년 동안 이 땅의 사람들과 고락을 함께 했다.

イム神父は、1954年に済州島に赴任して以来約60年間にわたって地元の人々と苦楽をともにしてきた


今では故国のアイルランドよりも済州島が故郷のように感じられるというイム神父。韓国に初めて足を踏み入れた瞬間から今日まで、彼はどんな人生を歩んできたのだろうか。60年間にわたる済州島での生活について聞いた。

- 当時の韓国は混乱状態でした。そんな国の南端にある済州島に赴任することになった背景は。

「1951年12月に司祭として韓国に赴任するよう発令を受けました。当時、韓国は戦争中でした。アイルランドで新聞とラジオから聞こえてくる韓国のニュースは、今日は何人死んだという内容だけでした。恐ろしくなりました。1カ月以内に死ぬだろうと思っていました」

25세의 아일랜드 청년 맥그린치가 처음 한국 땅에 도착했을 때의 모습.

アイルランドの25歳の若者マックグリンチーさんが初めて韓国を訪れたときの姿

韓国への道のりは長かった。アイルランドからニューヨークへ、ニューヨークからサンフランシスコへ、さらに横浜を経由して1953年4月11日に釜山に到着した。戦争が終わったばかりの韓国の姿を彼はリアルに記憶していた。

「全国から避難してきた人たちでごった返していました。通りでは子どもたちが外国人に手を差し出して物乞いをしながらつきまとっていました。働き口を求めて通りをさまよう人もいっぱいで、かますや板で建てたみすぼらしい家がぎっしり並んでいました」

翌年の1954年4月にイム神父は済州島に赴任した。済州島の村には何もなかった。聖堂もなく、司祭館もなかった。信者はわずか25人だった。

済州島に到着したイム神父は、どことなく故郷に似た小さな村に懐かしさを感じた。爽やかな風が吹き、石塀が多く、草葺の家も故郷に似ていた。結婚式や葬式の風習もそれほど大きな違いはなかった。一つだけ大きな違いは、済州島はアイルランドとは違い畜産業があまりにも発達していなかった。便所で飼育する済州島のシンボル「クソ豚」を見て、驚きを隠せなかった。幼い頃から農村で暮らし、牛や豚といった家畜を飼育することに慣れていたイム神父は、畜産業で地域住民の暮らしを豊かにするという夢と希望を持ち始めた。

慣れない土地での挑戦、そして相次ぐ失敗

道民を説得しようとしたが、容易ではなかった。「いくら言っても老父たちは一向に聞こうとしませんでした。約5年間で一番多く聞いた言葉が“だめ”だったと思います。彼らは、日本人がやろうとしたけど全部だめだったという返事を繰り返すだけでした」

イム神父は作戦を変更し、16~20歳の若者たちと一緒に4Hクラブの活動を始めた。4Hは、頭(Head)、心(Heart)、健康(Health)、手(Hands)のイニシャルをとった世界的な若者啓発キャンペーンだ。イム神父は、これを通じて若者たちに経済的自立の方法を指導することを決心した。家畜銀行を通じて小豚とひよこを無償で分譲したが、事業規模があまりにも小さすぎて大人たちの理解を得ることができず、限界にぶち当たった。

- 4Hキャンペーンはどのように展開しましたか。

「何度も失敗を重ねてよく考えた末、山で豚を飼育しようと決心し、今岳里に移動しました。漢拏山の中山間地帯を開墾することさえできれば、素晴らしい牧草地をつくり、数多くの家畜を飼育できると思いました。日本軍が駐留していた営舎があったので、その上を板とかますで覆って屋根にし、、豚の飼育を始めました」

そうして1961年11月に「セイント・イシドル中央実習牧場」の看板が立てられた。牧場名は、12世紀にスペインで暮らしていた農夫のカトリック教徒「セイント・イシドル(Isidore)」にちなんで名づけられた。

맥그린치 신부(가운데)가 모금 운동을 벌이기 위해 미국 휴스턴 텍사스를 방문했다.

マックグリンチー神父(中央)は募金運動のために米ヒューストン・テキサスを訪れた


70년대 이시돌 목장에서 양을 기르는 모습.

1970年代にイシドル牧場で羊が飼育されている様子


そうして始まった4Hキャンペーンは、現在今岳里で運営されているイシドル牧場の設立の礎となった。イシドル牧場は、済州島の畜産業と酪農業の発展の種になったと評価されている。

- 宣教とともにイシドル牧場を運営することになった特別なきっかけは。

「言葉ではなく実践で神の愛を示そうと思いました。困難にぶつかった隣人を助けることこそが真の実践だと信じていました。当時の彼らにとって大事だったのは、信仰よりも食べ物であり、生存するための方法を知ることだったのです」

- イシドル牧場の内部には牧場だけでなく老人ホーム、聖堂、保育所、修女院、ホスピス病院があります。これを運営するには相当の熱意と労力が必要だと思いますが、そこまでするのはなぜ。

「すべてが予め計画されていたと信じていました。4Hの会員らと中山間に初めて登り、牧場の実習所を計画する段階で小さな建物を事務所として建てましたが、ちょうど一人で住んでいたお婆さんが飢餓状態で、事務所の片隅に住ませたのが老人ホームの始まりになりました」

「困っている人を助けることに使命を感じていましたから、時代の要求に応えることこそ正しいことだと思いました。初期は食べて暮らしていく経済的自立を後押しし、雇用を創出することだけを考えていましたが、今は社会的弱者を助けることに注力しています」

- 多くの事業を展開しようとして多くの失敗を経験しました。あきらめようと思ったことは。

「もちろん、厳しい状況の連続でした。間違った判断や韓国文化への浅い知識と理解、信じた人からの裏切りなど多くの出来事がありました。でも、あきらめようと思ったことはありません。私たちが行うことはすべて私の個人的な計画ではなく、神の計画だと信じていたからです」

生死と苦楽をともにした4H会員らの犠牲は感動そのものだった。彼らがいなかったら、やり遂げることはできなかったと思います。彼らはいつも希望に満ちていました。どこからあんなエネルギーが出てくるのでしょう。朝から夜遅くまで働いても文句の一つも言いませんでした。彼らは互いに励まし合いました。ともに働き、ともに暮らし、協力することを楽しんでいるようでした。正直言って、理解しがたいほどの情熱でした。彼らのほとんどがイシドルの発展に人生を捧げました。感謝の気持ちでいっぱいです。そうした人たちがいるのに、どうしてあきらめることができますか」

道民たちの経済的自立を後押ししようという彼の努力は、福祉施設の設立にとどまらなかった。まともな金融機関がなく、社債で賄うことを当然のことのように思っていた道民のために済州島最初の信用協同組合(信協)を設立した。また、働き口を見つけることができず、島を離れるしかなない女性たちのために、羊の毛を利用した手織物事業を展開した。アイルランドから製織専門家の修道女を招き、済州島の女性たちに技術を教え、質の良い毛織物製品を生産し、一時は約1300人の雇用を提供したのが「翰林製織」だ。

한림수직 직원들이 양털로 옷을 짜고 있다.

羊の毛で服を編む翰林製織の従業員たち


- 恩恵を受けて感動した人が多かったそうですが、印象に残っている人は。

「あれからかなりの歳月が過ぎましたが、印象に残っているのはやはり草創期の4H会員たちです。特に、今済州島で最大の養豚農場2カ所を経営するサムチュク産業のシン・ブサム代表(73)が印象に残っています。シン代表は、経済的に厳しい家庭で育ったので、学業を中断し、中学生のときから働き始めました。4Hクラブの活動の初期のモデルだった家畜銀行から改良種のオス豚1頭の分譲を受けました」

「1960~70年代の養豚事業は、一時的な好況期を迎えましたが、1980年代の豚ショックによって大きな打撃を受けました。イシドル牧場での事業をやめ、豚を分け与え、シン代表を含む約10人の従業員は本格的に畜産業に参入しました」

当時、「豚をしっかり飼育すれば、10年後には海外のように自家用車を乗り回すことができる」というイム神父の言葉を聞いたシン代表は、「イム神父は嘘を言っている」と陰で笑っていたそうだ。現在彼は「ソレント」を所有しているそうだ。イム神父は、シン代表を「豚4500頭を飼育する企業の社長」と紹介した。

60年という歳月を済州島で過ごした。その間、彼は様々な人に出会い、数多くの挑戦と失敗を経験した。

- ホームシックになったり、済州島を離れたいと思ったりしたことは。

「一度もありません。若いときは、やることがあまりにも多くてそんなことを考える暇もなかったし、今は生涯を歩んできたこの地に親しみを感じています。済州島は私の故郷です」

- 最後の目標はホスピス病院の運営だそうですが、その計画とは。

「もう理事長の座も退いたし、毎日のんびりと過ごしています。でも、ぜひとも定着させたいのがホスピスの事業です。海外ではホスピスへの関心が高いですが、韓国ではまだ関心が薄いのが残念です。“終活”をする人にどんな態度で接すべきかは重要な問題です」

「2007年にセイント・イシドル牧場内に設立されたホスピス専門施設「イシドル福祉医院」は、これ以上治療しても病状の改善が期待できない患者が死を迎えるまで安らかに過ごしてもらおうという空間です。飼料工場の収益金と10年前に始めた種馬事業の利益をここに投じます。患者からは料金を受け取りません。すべての人が厳かに人生を締めくくる資格があることをすべての人に知ってほしいです」

- 60年間韓国で暮らしてみて、韓国の人情と韓国文化をどう思いますか。

「済州の人々はとても素晴らしいです。自分が空腹でも、ゆで卵があれば半分食べなさいと言って分けてくれるほど人情が厚いです。それだけではありません。聖堂を建てるときのことは忘れることができません。木材がなく聖堂を建てられないでいるとき、翰林邑の沖合いに大型の船が座礁したという知らせを聞きました。同じアイルランド人の船長は、「真相調査団が3日後に来る予定だが、その前に壊れた船から木材を持っていって聖堂建設に使ってくれ」と言いました。木材は聖堂を建てるのに十分でしたが、運ぶ人がいませんでした。信者は子どもを入れて25人だけでした。翌日の明け方、悩んだ末にとにかく行ってみようと海岸にいってみました。その瞬間、私は目を疑いました。浜辺に400人ほどの人が来ていたのです。彼らは、“(神父が)済州に来て苦労しているのに、自分たちがただ見ているわけにはいかない。立派な建物ができれば、気持ちも良くなる”と笑顔で話してくれました。カトリック信者でもない人たちが、なぜそのとき手伝ってくれたのか、いまだにはっきりとはわかりませんが、人を助けようという気持ちに深く感動し、それが地域住民のためにと始めた事業の原動力になったと思います」

最後に、コリアネットの読者のために一言とお願いしたら、イム神父は短く簡潔にこう答えた。

「お互いに愛し合ってください。そして、言葉ではなく行動で示してください」

コリアネット イ・スンア記者
slee27@korea.kr