「ある朝、目が覚めたらスターになっていた」という言葉がある。この言葉を一番強く実感しているのが、11月のストックホルム国際映画祭でデビュー作品「ドヒよ」で最優秀新人監督賞を受賞したチョン・ジュリ監督(34)だ。
成均館大学映像学科と韓国芸術総合学校を卒業したチョン監督は、自身初の長編シナリオで映画を制作し、幸運を手に入れた。
大の映画好きだった父親の影響で、チョン監督は幼少時代から漠然と映画監督になりたいという夢を抱き、映画監督になるためのレールを歩んできた。
彼女は、「幼少の頃、ピアノを習っているときはピアニストになりたいと思い、絵を描いているときは画家になりたいと思っていた。映画にはそういった要素が全て含まれていた。視覚芸術でありながら、音楽的な要素も哲学的な要素も全て持っていた」と話す。
俳優やスタッフたちと一緒に映画を制作することがとても楽しいというチョン監督は、「大きなやりがいとエクスタシーを感じる仕事であることには間違いない。とても魅力的な媒体である映画は、一人ではなく多くの人と一緒に制作することでより良いものがつくられていく」と説明する。
ファンと交流するチョン監督(右)
ドヒよ』は、美しくて閑静なこじんまりとした海沿いの村で、中学生の少女ドヒ(キム・セロン)と村の交番所長として赴任してきたヨンナム(ペ・ドゥナ)が出会い、二人の間に起こる様々な出来事を描いている。義父のヨンハ(ソン・セビョク)から虐待を受けていたドヒは、ヨンナムに出会って希望を見出し、ヨンナムを守ろうととんでもない行動に出る。
この映画を見た海外メディアの記者たちは、「とても素晴らしい。シナリオも俳優の演技も完璧だ。映像も美しく、全ての要素がしっかり調和した映画」と高く評価した。
こうした評価について、チョン監督は、「とるに足らないちっぽけな人物の内面を描いた物語だと思ったが、そこに普遍性があることに驚いた。主人公たちの孤独感や状況を外国人の観客にも共感してもらえた」と説明する。
「ドヒよ」のワンシーン。ドヒ役のキム・セロン(左)とヨンナム役のペ・ドゥナ
チョン監督は、このシナリオでCJ産学協力プロジェクトに応募したものの落選した。しかし、ファインハウス・フィルムの共同代表のイ・チャンドン監督は、「物語はちっぽけだが、大きな意味を持っている」と、シナリオの真価を見抜き、映画の制作を決断した。英国で映画の撮影に臨んでいた女優のペ・ドゥナは、この映画のシナリオを読んでわずか3時間後に出演したいと申し出てきたという。
チョン監督は、シナリオを書きながら多くの孤独感と挫折感を味わったが、自身が書いた物語と映画の主人公たちから慰めを受けたという。彼女は厳しい状況に置かれた人々を見捨てないことが、観客に伝えたかったメッセージだと語る。
チョン監督に映画「ドヒよ」を制作した背景と新人監督賞を受賞した感想について聞いた。
- デビュー作品「ドヒよ」でカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門に招待され、ストックホルム国際映画祭で最優秀新人監督賞を受賞した感想は。- カンヌ映画祭に招待されるなんて夢にも思わなかった。映画が完成した直後にカンヌで初めて公開された。映画の上映中は、何事もなく最後まで上映されるようひたすら願っていた。大きな拍手が巻き起こったときは、呆然とするだけで実感が湧かなかった。でも、2階でスタンディング・オベーションをしている観客を見て胸がジーンとしてきた。長編映画の制作は初めてだったし、多くの観客に見てもらうのも初めてだったので、とても緊張する経験だった。私の映画を熱心に観覧し、共感して拍手を送ってくれる観客の姿を見て驚き、映画には計り知れない大きな力があると思った。
韓国の現実を反映させた映画だからではないだろうか。いろいろな国で同じような質問を受けたが、韓国社会と私の問題認識が反映されているのは当然だが、韓国の現実を具体的に描こうと思って制作したわけではない。映画の内容は全てフィクションだ。
「ドヒよ」で自らも癒しを受けたというチョン監督
‐「ドヒよ」では、家庭内暴力や同性愛、不法滞在外国人労働者の人権問題など、重いテーマが取り上げられている。デビュー作品から重いテーマを取り上げたわけは。 - シナリオを書こうと思ったのは、あるモチーフや出来事からアプローチしようとしたのではなく、とにかくドヒという少女を描きたかった。ドヒは、とても孤独な状況に置かれていた。孤独でも孤独であることに気づかない少女を描こうと思っていたら、愛を受けたことのない見捨てられた少女、そうした設定が生まれた。母親に捨てられて行き場を失い、義父と祖母に虐待を受けるのだ。
孤独から出発し、もう一人の孤独な人物を登場させる必要があった。それがヨンナムだ。やはり彼女の孤独さを最大限に表現しようとしたら他の要素が生まれた。つまり、男性中心社会、警察社会だ。警察社会はエリート社会だ。ヨンナムは自分よりもはるかに年上の部下たちを率いる孤独な立場にいた。また、同性愛者というアイデンティティ、孤独を運命と受け入れるしかない状況だった。
ヨンナムは、ドヒとは違い自分が孤独であることをよく理解していた。しかし、克服することができず、身を隠すしかなかった。そんな二人が、もはや逃げ場のない海沿いの小さな村で出会う物語を描いた。その村に移住労働者を登場させた。そして、彼らにも孤独という共通の感情を発見する。
カンヌ映画祭で。左からソン・セビョク、キム・セロン、チョン監督
- 韓国人として初めてストックホルム国際映画祭で新人監督賞を受賞した。カンヌ映画祭とストックホルム映画祭で注目されたわけは。- まず、大きかったのは、幸運にもカンヌ映画祭の「ある視点」部門で公開されたことだ。カンヌ映画祭の「ある視点」は多くの人が関心を寄せる部門で、そこで多くの関係者が私の映画を見た。彼らが私の映画を見て自国の映画祭に招待したのは、韓国の現実を描いていたからではないかと思う。自分たちの人生が投影されている映画を見て共感したのだと思う。韓国だけの話だと思っていたら、意外にも多くの国の人から共感を得た。
- この映画の最後の場面で、ドヒとヨンナムが一緒に村を出て行く。これほどまでに過酷な試練に見舞われる二人の主人公に言いたいことは。- ヨンナムがドヒを連れて村を出て行く場面を結末にするという設定で物語を展開させようというのは当初から考えていた。あまりにも過酷な状況に置かれることになるが、そういう結末にしようと心がけた。だから、それまでの過程が過酷になった。結末が一つのメッセージだ。
伝えたかったのは、とにかく見捨てないでほしいということだ。ドヒを見捨てることができず、ドヒを連れて村を出るヨンナムと、私たちの身近で起きている胸の痛むことを見て、大きな困難を抱える人々を見捨てないでほしいと願いつつこの映画を制作した。
映画の結末は、観客一人ひとりに推測してほしかった。ヨンナムの気持ちを察してほしかった。観客一人ひとりがいろいろ推測しながら、ヨンナムの気持ちで結末を見てほしかった。そうした多くのことを願うのが作家の心境だ。ヨンナムの立場から見ると、ヨンナムはこれまでとは違う人生を生きようと決心した。孤独を自分の運命だと思い込み、自ら孤独を貫こうとしたヨンナムが、特定の誰かと一緒に過ごそうと決心したのだ。二人の未来が明るいとは決して思わないが、一人ではなく二人で、これまでとは違う人生を歩んでほしいという気持ちだった。
私がつくった仮想の人物だが、私自身が癒された。この物語は、大変で辛い時期に書いたものだ。シナリオづくりは大変だったが、自分の書いたシナリオが映画として制作されることで、俳優やスタッフたちから多くの慰めを受けた。
- この映画の制作においてイ・チャンドン監督の役割が大きかったそうだが、具体的には。 - このシナリオがCJ産学協力プロジェクトの審査で落選してがっかりしていたときにイ監督が声をかけてくださった。イ監督はそのとき、「物語はちっぽけでも、大きな意味を持つ映画になるかもしれない。これを映画にしよう」と言ってくださった。この映画の意味を理解し、映画にしてくださった方だ。フリープロダクションやキャスティング、ロケーションなど、準備段階から撮影、仕上げの後半作業まで、各段階で細かいところまで気を配り、いろいろアドバイスしてくださった。
いつも支えてくれる人がそばにいるという安心した気持ちで制作に打ち込むことができた。編集はとても苦労した。長編映画は短編映画とは全く違った。「編集はこんなにも違うのか」と思った。全ての場面が大切だと思っていたが、2時間の物語をつくり上げる編集の重要性を教えてくださった。いかに強弱をつけるかなど、多くのアドバイスをしてくださった。
- 映画監督になろうと思ったきっかけは。- 高校2年生のときの日記帳に「私は映画監督になってやる」と書いてあるのを見て大笑いした。中学生のときから映画を見るのが好きだった。父が大の映画好きで、ビデオテープを山積みにして映画を見ていた。そんな父の姿を見ながら映画に親しみを感じ、好きになった。中学・高校のときにたくさんの映画を見て、映画監督になろうと決心した。
大学でいろいろなことを学ぶ傍ら、友人たちと小さなグループを作って短編映画をつくり始めた。当時はカムコーダが普及し始めた頃で、映画をつくることもできた。映画監督というものが大それたものではなく、身近なものと感じていた。
「ドヒよは、カンヌ映画祭の「ある視点」部門に招待された
- 映画制作は、シナリオづくりから実際の制作まで、長く困難な過程を経る。今回の映画制作、またはこれまで映画監督を目指して歩んできた中で一番辛かったことは。 - 2010年3月に韓国芸術総合学校を卒業した後、何をすべきかとても悩んだ。そして、シナリオの素案を書いた。そうして素案を書いてからしばらく時間が経ち、本格的に書き始めたのは2012年8月で、2013年3月にシナリオが完成した。2010年に素案ができたが、これではだめだと思っているうちに2年の月日が過ぎた。
シナリオを書くのが一番大変だった。2年という暗澹たる月日が流れた。前が見えない真っ暗な状態だった。最初の長編シナリオでもあり、こうした人物を描きたいというイメージはあっても、なかなか容易なことではなく、耐えるのだと自分に言い聞かせてもなかなか耐えられるものではなく、自ら乗り越えなければならない過程だった。自ら乗り越えるのは大変なことだった。
物語を完成させるのはとても大変なことだ。無から有を生み出す作業で、仮想の人々や出来事をつくらなければならないからだ。作家には高い基準がある。作家は読者でもあり、観客でもあるのだ。私の創作行為は期待に及ばず、とても辛かった。あきらめようかとも思ったこともあったが、何とか耐えてきた。
実際に映画を制作したら、目まぐるしく時間が過ぎていった。一生懸命撮影し、編集段階になったら、今度は長編映画とは何かを改めて考えるようになり、また辛い気持ちになった。私は長編映画を制作するために撮影しているつもりだったのに、改めて考える必要があると思ったらとても辛くなった。そうした過程で多くのことを学び、良きスタッフや俳優に出会うことができ、とても幸運だった。
映画「ドヒよ」の撮影現場で
- 映画監督の魅力とは。- デビュー作品を制作する過程であらゆることを経験した。スタッフや俳優に出会い、撮影し、後半作業を終えて完成、観客に公開する。1本の映画制作で多くの人と一緒に仕事していることを知った。自分が映画監督であることが嬉しく感じられた。自分がしたいことを他の人が代わりにしてくれるのではなく、一緒に仕事してより良いものがつくられ、それが喜びになる。それが魅力だと思う。
- 次回作の構想は。また、取り上げたいモチーフは。 今書いているシナリオを釜山映画祭のプロジェクト・マーケットで公開した。40代半ばと19歳の二人の女性を描いた物語だ。19歳の女性が主人公で、身近で彼女に関わる人々、それによって影響を受ける彼女の姿を描いた物語だ。いつかSF映画も制作したい。存在について最も奥深く語られているジャンルだからだ。宇宙の中の人間や突然変異、クローン人間などの問題が存在論的な領域に感じられる。
コリアネット イム・ジェオン記者
写真:コリアネット イム・ジェオン記者、ファインハウス・フィルム
jun2@korea.kr
映画「ドヒよ」のポスター