ひと

2014.12.18

세브란스 병원 국제진료센터의 인요한 소장. 이 진료센터는 외국인 환자를 위한 각종 의료서비스를 제공한다. 인 소장은 이곳의 총 책임자이다.

セブランス病院国際診療センターのイン・ヨハン所長。同診療センターは、外国人患者のための多様な医療サービスを提供していて、イン所長が総責任者を務めている



情感溢れるチョンラド(全羅道)方言を駆使する青い目の金髪教授がいる。
40人の従業員と70人の研修医を陣頭指揮するヨンセ(延世)大学医学部セブランス病院国際診療センターの所長、イン・ヨハン教授(John A. Linton)がその主人公だ。

外見は典型的な外国人だが、彼の中には、誰よりも韓国を愛する熱い心がある。その心の源泉は100年以上も前から韓国に根を下ろして生きてきた、彼の先祖から生まれたものだ。

아래 줄 왼쪽 아이를 안고 있는 사람은 유진 벨, 윗줄 가운데 모자를 쓰고 서 있는 사람이 알렌이다. 이 두 사람은 미국 북장로교와 남장로교의 대표로 한국에서 선교활동을 펼쳤다. (사진: 인요한 교수 제공)

左下の子どもを抱いている人はユージン・ベル氏、後ろの中央の帽子をかぶって立っている人がアレン氏。2人は、それぞれ米国北長老派教会と南長老派教会の代表として韓国で宣教活動を行った。(写真提供:イン・ヨハン教授)


인요한 교수의 모친 로이스 린튼(왼쪽, 한국어 이름 인애자)과 부친 휴 린튼(오른쪽, 한국이름 인휴). 인요한 교수는 이 부부의 여섯째 아들로 태어났다. (사진: 인요한 교수 제공)

イン・ヨハン教授の母親のロイス・リントン(左、韓国語の名前はイン・エジャ)さんと父親のヒュー・リントン(右、韓国の名前はイン・ヒュー)さん。イン・ヨハン教授は、この夫婦の第六子として生まれた。(写真提供:イン・ヨハン教授)


イン教授の祖先は119年間、4代にわたり、韓国と深い縁を結んできた。彼の父の外祖父で宣教師のユージン・ベル(Eugene Bell、1868〜1925)氏は、1895年に米国から朝鮮に入り、チョンラド(全羅道)など南部地域で布教活動を行った。イン教授の祖父であるウィリアム・リントン(William Linton)氏は、ユージン・ベルさんの義理の息子である。リントン家とベル家の宣教師たちは、韓国でハンナム(韓南)大学、テジョン(大田)大学をはじめとする多くの教育機関と医療機関を設立し、結核患者、ハンセン病患者など、苦しみを抱えている人たちをケアした。彼らは、貧困、日本による植民統治、戦争など、歴史の苦しみを韓国人と共有した。

인요한 교수의 자서전 ‘내 고향은 전라도, 내 영혼은 한국인’ (2006) 표지.

イン・ヨハン教授の自伝『私の故郷はチョンラド(全羅道)、私の魂は韓国人』(2006)の表紙


イン教授の韓国への愛情は、自伝『私の故郷はチョンラド(全羅道)、私の魂は韓国人』(2006)からもよく分かる。彼は、「韓国人は生活が苦しくても、楽しく明るく生きようと努力する楽天的な民族だ。私は自分の血の中に流れる韓国人の気質を誇りに思っている。私を育てた8割は韓国人の熱い情だった」と語る。また、自分が医師の道を選んだ理由について、先祖のように「他の人が行こうとしない道の上で、自分が持っている才能と技術により、苦しい境遇に置かれた人々を助けるために努力したかった。それが、宣教師の息子としての宿命であり、私が韓国人から受けた愛に報いる方法」と話す。

イン教授は、兄のイン・セバンさんやユージン・ベル宣教師の子孫と一緒にユージンベル財団(Eugene Bell Foundation)を1995年に米国、2000年に韓国に設立し、北朝鮮に対する医療支援など人道支援活動を続けてきた。ユージンベル財団は先月、3週間にわたって北朝鮮を訪問し、北朝鮮保健省との間で来年ピョンヤン(平壌)に結核患者専用の病棟3棟を建設することで合意した。イン教授は、これまでに合計29回北朝鮮を訪問し、北朝鮮に対する人道支援活動を強調してきた。そして最近、世界人権宣言66周年を迎え、「大韓民国人権賞」の勤政勲章を受章した。

인요한 교수(오른쪽)는 지난 10일 제66주년 ‘세계인권선언의 날’ 기념식에서 국가인권위원회 위원장으로부터 대한민국 인권상 근정훈장을 받았다. (사진: 연합뉴스)

イン・ヨハン教授(右)は10日、第66回「世界人権宣言の日」の記念式で国家人権委員会の委員長から「大韓民国人権賞勤政勲章」を手渡された。 (写真提供:聯合ニュース)



유년기를 보낸 고향 순천을 떠올리며 미소짓고 있는 인요한 교수. 그는 순천에서 보낸 시간을 가장 소중하게 생각하고 있다.

幼年期を送った故郷スンチョン(順天)を思い浮かべて微笑むイン・ヨハン教授。彼はスンチョン(順天)で過ごした時間が最も大切だと思っている


イン・ヨハン教授に4代目としての韓国生活と北朝鮮支援事業、社会活動などについて聞いた。

- 若い韓国人もなかなか駆使できないチョンラド(全羅道)の土俗語が上手だ。韓国人として、故郷チョンラドが持つ意味は。
119年前にユージン・ベル宣教師がチェムルポ(済物浦-現在のインチョン(仁川))から韓国入りしたことがきっかけとなり、4代にわたって韓国で暮らしている。朝鮮末期、米国北長老派教会と南長老派教会の宣教師がそれぞれ朝鮮の北部と南部で活動した。私の祖先は、そのとき南長老派教会の宣教師として全羅道に来た。チョンラナムド(全羅南道)モクポ(木浦)で生まれた祖母は、チョンラドに対する愛情がとても大きかった。父もチョンラブクド(全羅北道)グンサン(群山)生まれで、私もチョンラナムド・スンチョン(順天)で育った。スンチョンは私にとって宇宙の中心だ。

- インさんの先祖は、草の根や木の皮のようなもので延命するしかなかった朝鮮半島のひどい食糧不足を経験し、伝染病が蔓延する厳しい環境のなかで亡くなったりと、数多くの苦労をしてきた。百年以上も耐えられた理由とは。
チョンラド(全羅道)が私たちを受け入れてくれたと思う。人々は私たちを韓国人と同じように接してくれた。先祖が朝鮮に初めて来たときは、厳しい環境、物資の不足、風土病などで非常に困難な状況だった。私たちは、韓国人とすべての痛みを分かち合った。父の外祖母のロッテ・ベルは、風土病で30代にして亡くなった。
2009年にハンセン病患者の療養施設であるヨス(麗水)エヤンウォン(愛養園)の総会に行ったとき、お礼を言われた。私は、「皆さんが、私たちがお助けできるよう、心を開いてくれたおかげ」と、感謝の気持ちを伝えた。実際、私は韓国からたくさんのものをもらっている。特別帰化して住民登録証をもらえたことも感謝している。本当に大切にしている。


- 数年前、チリサン(智異山)にある宣教師休養施設の存続をめぐる議論があった。正直、韓国社会に不満を感じたのでは。
韓国で一度だけ寂しいと思ったときがまさにその時だ。自然破壊を理由に非難する声が一部あった。
だが、自然破壊は決してなかった。チリサン(智異山)の療養施設は、宣教師たちが1900年代初め風土病が蔓延していた時代、6月から9月まで生活していたところだ。彼らは、細菌や感染症から自由なチリサンの老姑壇(ノゴダン)地域で、外国人を対象にハングルを教え、宣教のために聖書を韓国語に翻訳していた。当時、ここでレイノルズ宣教師(William D. Reynonds、Jr、1867~1951)は、聖書を韓国語に翻訳し、韓国語の文法体系を整理した。
本当に寂しくて、悲しくて、いっそのこと無人島に行ってしまおうかとも思った。韓国人を離れたくはなかったので、韓国人が多く住んでいる外国に行ってしまおうかとも考えた。しかし、韓国を離れることはできなかった。


- 異邦人として感じた韓国、韓国人の良さとは。逆に課題とは。
危機に強い。危機に対応する能力を本当に高く評価する。しかし、必ず「25時」に解決するのが特徴だ。危機が起きると、早めに解決に当たるというより、ぎりぎりになって劇的に解決する傾向がある。非常に面白い特徴だ。
また、個人が目立とうとする西洋の価値と、集団との一体感を重視する東洋の価値の両方を追求する。すべてを手に入れようとする意欲的な人々だ。


인요한 교수는 남북 관계에서 남과 북 모두가 변해야 한다며 특히 상대적으로 여유가 있는 남쪽부터 마음을 열 것을 강조했다.

イン・ヨハン教授は、南北関係において、南と北の両方が変わらなければならないと指摘し、特に相対的に余裕のある南が先に心を開くべきだと強調する



- 医療だけでなく、南北関係、社会問題などについても活発に発言し、活動している。特に、南北関係への関心と愛情は韓国人を勝る。南と北の当局と国民として持つべき態度とは。
統一は必然である。早く統一が実現し、完全な「半島」の意味を回復しなければならない。そのためには南と北の両方が変わらなければならないが、物質的に余裕がある南が先に変化できればと思う。特に、朝鮮族や脱北者を温かく迎え入れる必要がある。ノムヒョン(盧武鉉)政権時代、ノ大統領に中国同胞に労働許可や医療保険を与えることを提案したことがある。彼らが韓国社会から良い印象を受け、良い経験をすれば、それが北朝鮮にいる親戚などを通じて北朝鮮社会に伝わるからだ。うわさというものはあっという間に広がる。蝶を考えてみるとわかりやすい。捕まえようと躍起になると捕まらないが、思わぬときにそっと肩に止まる蝶のように、彼らの口を通じて伝わる韓国での良い経験と印象は、自然に北朝鮮に広がるはず。実際に、以前に比べると朝鮮族の出入国申告の手続きがかなり変わっている。韓国が彼らを温かく受け入れ、彼らがそれを感じたら、そこから生まれた良い評価が広がり「統一が近い」ということを多くの人が体感するだろう。 

- 保守陣営の一部には、これまでの北朝鮮への支援について「ポジュギ(無原則な経済支援)」と批判する向きもある。北朝鮮への支援において最も重視していることとは。
まず、「ポジュギ(無原則な経済支援)」という言葉は間違っている。絶対に、決して無原則な経済支援ではない。韓国が支援する量は、西ドイツが東ドイツに支援していた量の60分の1にも及ばない。
韓国は、120万トンの米を貯めておき、動物の飼料として与えることを考慮している。北朝鮮は食糧不足で住民が死んでいっている。飢え死にすることも罪で、人権侵害だと思う。個人的な考えだが、半分の60万トンの米を北朝鮮にあげればいいと思っている。大規模な支援を行うのである。
6、7年前、北朝鮮への大規模な支援が行われたとき、4台の救急車と20億ウォン相当の物品を持って北朝鮮に行った。最初出発するときは明るい気持ちだった。ところが、ピョンヤン(平壌)をはじめ、ウォンサン(元山)、ハムフン(咸興)、チョンジン(清津)の4つの地域の病院に医療品を渡すたびに、心はどんどん重くなった。北朝鮮には郡の病院の数が250に上り、結核療養施設が60カ所を超える。我々が持って行ったのは、あまりにも足りない量だった。
その日、私は、ある浜辺で一握りの砂を手に北朝鮮側の案内員に「私は持ってきたのは、この一握りの砂にも及ばない」と叫び泣いた。そのとき、逆に案内員が私を慰めてくれた。
統一後を考えてみてほしい。統一された後、北朝鮮の人が韓国に来て何を感じるか。手遅れになる前に彼らを助けるべきだと思う。


- 「私を育てた8割は韓国人の熱い情」と語っている。記憶に残るエピソードとは。
テジョン(大田)外国人学校に通っていた10代の頃、寮で週末のお出かけに着る服を借りようと1歳上の先輩、チェ・ギホさんの部屋に行った。チェさんはいなく、素敵な洋服が壁にかかっていた。その服を着て、チェさんの靴まで履いて出かけた。楽しく遊んでから寮に戻る直前になって、ようやく私はメモも残さずに服と靴を勝手に借りてきたことを思い出した。チェさんがかんかんになって怒っているだろうと、心配になった。ところがチェさんの部屋に行くと、チェさんはにっこりと笑ってまったく腹を立てなかった。そのとき、チェさんの配慮と人情を感じた。「どうせ着て行ってしまったからには楽しく遊んで来い」という配慮。これが「情」だと感じた。

인요한 교수는 자신의 어린 시절을 회고하며 한국인들이 ‘온돌방의 도덕’을 회복해야 한다고 강조한다.

イン・ヨハン教授は、自らの幼少期を振り返り、韓国人が「オンドル部屋の道徳」を回復しなければならないと強調する



- 最近、人権賞勤政勲章を受章した際、複数の兄弟と一緒に育った背景と「オンドル部屋の道徳」を強調している。外国人の容姿を持った韓国人として育った成長過程が気になる。
スンチョン(順天)で6人兄弟の末っ子として過ごした幼少期、オンドル部屋でオンドルの火で温まりながら大人から知恵と知識、道徳を学んだ。その時、人間としてのモラルという最も重要な教えを学んだ。他人の悪行を理由に自分の悪行に免罪符を与えてはならないというものである。この教えは、今の時代でも重要だと考えている。

- 人生で最も重要な契機を提供してくれた人とは。ロールモデルとは。
ソン・ヤンウォン(1902-1950)牧師をあげたい。彼は、キム・グ(金九)先生が校長にならないかと勧めても受け入れなかった。戦争中にも避難も行かず、教会とハンセン病患者を守り、結局共産軍に銃殺された。2人の息子を共産軍に失ったが、自分の息子を殺した者を許し、養子として迎えた。ソン牧師は、イエスの次に偉大な人だと思う。彼は私のメンターであり、私の精神の鏡である。

- 一生のうちに叶えたい願望とは。
65歳を過ぎると故郷のスンチョン(順天)に戻って余生を送りたい。かつて、テウォングン(大院君)も「地不如順天(順天ほどの街はない)」と、スンチョンの美しさを高く評価している。順天はそんなところだ。引退したら、故郷ノスンチョンに戻りたい。

- あなたにとって韓国はどんな意味か。
一言で「情」だ。情は西洋で言う世俗的な男女間の愛に比べられるものではない。それよりはるかに奥深く、大きな意味がある。情は、相手の弱点を理解し強みをさらに生かせるようにする気配りで、一緒にいたいと思う気持ちでもある。韓国は私にとってはまさに情だ。

北朝鮮への人道支援に関する詳しい情報は、ユージンベル財団のホームページをご参照ください。https://www.eugenebell.org

コリアネット ユン・ソジョン、イ・スンア記者
写真提供:コリアネット チョン・ハン記者
arete@korea.kr