国家有功証書を手にして写真撮影する李賢遠さん=16日、清州、イ・ギョンミ撮影
[清州=イ・ギョンミ]
1951年1月6日、韓国戦争(6・25戦争)のさなか。娘を守り、国のために献身したいという父の意思に従って、16歳の少女は、陸軍軍医学校(今の国軍看護士官学校)に入学した。酷寒の中、たった一枚の毛布で寒さに耐えながら、看護将校になるための訓練を受けた。
任官後に派遣された戦場では、絶え間なく運ばれてくる負傷兵たちの世話で精いっぱいだった。兵士たちのうめき声や血なまぐささで充満した病院では、戦争が怖いとか、自己犠牲の精神を発揮するなど、考える暇なんかなかった。悲惨な戦争の中で、ただ自分の任務を遂行するだけだった。
李賢遠(イ・ヒョンウォン)さんは、国軍看護士官学校1期生として、韓国戦争当時、負傷した兵士たちの治療にあたった。李さんは、看護人材の不足で苦しんでいる当時、献身的に任務にあたった功績が認められて、今月6日に、文在寅(ムン・ジェイン)大統領から「国家有功者」証書を受けた。
16日、忠清北道(チュンチョンプクト)の清州(チョンジュ)市の自宅で行われたインタビューで、86歳となった李さんは、はっきりとした口調で、あの時のことを語ってくれた。李さんは、今まで家族にも自分の戦争体験を 話したことがなかった。その理由について李さんは「銃を持って直接闘った人だけ、参戦勇士だと思った」と説明し、「私を認めてくれて感謝する」と話した。
李さんのような参戦勇士のおかげで、今の韓国が存在すると伝えると、「私よりも、本当の意味の戦場で、そして野戦病院などで苦労した人たち、国のために戦ったが記録に残っていないひとたちを必ず探してほしい」と呼び掛けた。
国家報勳処は、看護将校や学徒義勇軍など、国のために尽力した人々を「参戦英雄」とし、彼らの犠牲や献身に報いるため、未登録参戦有功者の発掘事業を2014年から開始している。
李さんも、この事業の対象に選ばれ、遅ればせながら、国家有功者になった。具体的には、韓国戦争における女性軍人参戦歴史の文献を根拠に、国軍看護士官学校の1期・2期生の生徒たちが参戦したことが分かった。国軍看護士官学校の卒業者名簿から、参戦有功者として登録されていない人々を探していく過程で、李さんの参戦事実が確認された。
文大統領は6日に行われた顕忠日に、「国家有功者と遺族に対する報勳は、政府の最も重要な政策の課題の一つ」とし、「今、われわれが享受している自由と繁栄は、自分の全てを国にささげた人々の犠牲のおかげ」と述べた。これは、彼らのことを忘れず、恩返しすることの重要性を強調したものとみられる。
韓国戦争当時、列車内で負傷した兵士たちを治療する看護将校=国軍看護士官学校
1953年に任官し、釜山にある第3陸軍病院で任務を遂行した。その後、済州島(チェジュド)や馬山(マサン)市などにも派遣され、1957年に除隊した。
「足や指が1本ないのは大した怪我でもなかった。最初は見るだけでも苦しかったけど、どんどん慣れてきた。でも、つらい記憶も少しずつ薄れていく。70年も過ぎたから…」
李さんに、最も記憶に残っていることを聞くと、両足と両腕をなくした、ある兵士の話を聞かせてくれた。頭と胴体しか残っていないのに、足の指がかゆいと繰り返し言っていたそうだ。歯を磨くことも、顔を洗うことも、トイレへ行くことも、誰かの手を借りなければ、何もできなくなってしまったあの兵士のことが、李さんは今も忘れられないと話した。
李さんが国のために献身的に取り組んだ背景には、先祖代々の家風も影響している。李さんは、1907年、オランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議で、朝鮮が日本の支配下におかれていることの窮状を訴え,日韓保護条約(1905)が無効であることを知らせる狙いで高宗が派遣した李相卨(イ・サンソル)さんの孫で、抗日運動を展開した李南珪(イ・ナムギュ)さんのひ孫でもある。子供の頃から、日本が強いた創氏改名や断髪令などを最後まで拒否し、独立運動をした曽祖父や祖父の下で育ったため、「愛国」は当たり前のようなものであった。
今年3月に、新型コロナウイルスの感染者が爆発的に増えた大邱(テグ)に派遣された60期生の後輩たちの話にも触れた。「新型コロナウイルスと韓国戦争は、国家的危機という共通点がある。とても誇らしい」と後輩たちをたたえた。
最後に、最近、急速に冷え込んでいる韓国と北朝鮮の話をし、「もうけんかはやめて、お互いに同等の待遇を受けられる、平和統一を望む」と話した。
文在寅大統領夫妻と話する李賢遠さん=6日、大田、孝子洞写真館
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