日本外務省の独島広報パンフレットに掲載されている真実
日本の主張: 日本は昔から独島の存在を認識していた。
経緯度線を表示した日本地図の中で最も代表的な長久保赤水の 『改訂日本輿地路程全図』など日本の各種地図と文献よりこれを確認することができる。
真実:
『改訂日本輿地路程全図』は私撰地図として、1779年の原本には鬱陵島と独島が朝鮮本土と共に色づけされていない状態で経緯度線の外に描かれているため日本領域外の島として認識している。
むしろ日本海軍省の朝鮮東海岸図(1876年)のような官撰地図では独島を韓国の領土に含めている。
年徳川幕府が日本の漁民の鬱陵島渡海を禁止して以後、この二つの島に対する認識が薄くなり、独島を松島・リヤンコ島・ランコ島・竹島などと呼んで名前の混乱を引き起こしただけでなく、地理的な位置も完全に忘れ去られてしまった。
主張 2
日本の主張: 韓国は昔から独島を認識していなかった。
韓国側が主張する于山島が独島だということを裏付ける明確な根拠はなく、于山島は鬱陵島の別名か実存しない島である。
真実:
独島は鬱陵島から肉眼でも見ることができたため、鬱陵島に人が住み始めた時から認識することができた。東国文献備考(1770年)、万機要覧(1808年)などには「鬱陵島と于山島は全て于山国の地であり、于山島は日本人が松島と呼んでいる島」であると明確に記録されている。当時「松島」とは日本人が独島を指す名前でだったのである。これを見れば于山島が独島であるということが明確になる。
2005年隠岐で発見された安竜福に関する調査報告書の『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一券之覚書』には、安竜福が持っていた地図に鬱陵島と独島を朝鮮の江原道に属する島として明記されている。
主張 3
日本の主張: 日本は鬱陵島に渡る時の停泊場や魚採地として独島を利用し、遅くとも17世紀半ばには独島の領有権を確立した。
江戸時代の初め(1618年)、鳥取県の米子の住民である大谷、村川の両家庭では幕府から渡海兔許をもらい、鬱陵島での漁業を独占し、アワビを幕府に献上していた。独島は鬱陵島に渡航するための航行の目的や停泊場として、またアシカやアワビ捕獲の良い漁場として利用されていた。
真実:
渡海兔許は国内の島に渡航するためには必要のない文書なので、これはむしろ日本が鬱陵島や独島を日本の領土ととして認識していなかったという事実を裏付けるものである。
世紀半ばの日本の古文書である『隠州視聴合紀』(1667)は「日本の西北の限界を隠岐島にする」と記録し、日本人自ら独島を自国の領土から除いている。1877年日本国家最高機関である大政官は17世紀末、韓日間の交渉結果を基に「 稟議趣旨の竹島(鬱陵島)外一島(独島)の件に対して、本邦は関係なしと心得るものなり」とし、独島が日本の領土ではないことを公式に認めた。一方外務省も『朝鮮国交際始末内探書』(1870)で「竹島(鬱陵島)と松島(独島)が朝鮮付属になっている始末」という報告書を作成し、松島(独島)が韓国の領土であることを認めている。
主張 4
日本の主張: 日本は17世紀末、鬱陵島渡航を禁止したが、独島渡航は禁止しなかった。
1696年鬱陵島周辺の漁業を巡る韓日間の交渉結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁止したが独島への渡航は禁止しなかった。これにより当時から日本が独島を自国の領土と認識していたことが明確になる。
真実:
17世紀末江戸幕府が鬱陵島渡航を禁止する時、「竹島(鬱陵島)以外に鳥取県に付属された島があるのか」という江戸幕府の質問に対して鳥取県は「竹島(鬱陵島)、松島(独島)はもちろんその他付属された島はない」と答えて鬱陵島と独島が鳥取県所属ではないことを明らかにしている。また日本側の資料である大谷家の文書に見られる「竹島(鬱陵島)内の松島(独島)」、「竹島近辺の松島」などの記録の説明からもよく分かるように「独島は鬱陵島の付属島嶼」として見なされていた。それため1696年1月、鬱陵島渡海禁止措置には独島渡海禁止も当然含まれていたのである。
主張 5
日本の主張: 韓国が自国の主張の根拠として引用する安竜福の陳述内容には多くの疑問点がある。
安竜福の渡日活動は自分の不法渡日罪を正当化するために誇張したことで、日本の記録と符合しないため事実ではない。
真実:
日本の記録にないことが朝鮮の記録にあるからと言って朝鮮の記録が間違っていると判断することは日本側の独断に過ぎない。安竜福の渡日活動は肅宗(スクチョン)実録、承政院(スンジョンウォン)日記、『東国文献備考』など韓国の官撰書と『竹島紀事』、『竹島渡海由来記抜書控』、『異本伯耆志』、『因府年表』、『竹島考』など日本の文献にも記録されている。1696年1月に下された幕府の渡海禁止令は同年の8月、米子の住民に伝えら米子の住民がその間独島へ行くことができたので、同年5の月、鬱陵島で日本人に会ったという安竜福の陳述を嘘であると見る日本側の主張は妥当ではない。
主張 6
日本の主張: 日本政府は1905年、独島を島根県に編入し、独島領有の意思を再確認した。
島根県隠岐の島住民である中井養三郎の独島領土編入の申請を受けた日本政府は、閣議決定で独島を領有するという意思を確認した。
真実:
日本が1905年に独島を固有の領土として編入したことは、ごり押しに過ぎない。その主張が事実であるなら、他の固有領土に対してもまったく同じ編入措置を取るべきであろう。1905年の島根県編入措置は日露戦争中の朝鮮半島(韓半島)侵奪過程で行われたものであり、すでに確立されていた大韓民国の独島領有権に対する不法かつ無効な措置である。
主張 7
日本の主張: 対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)の基本過程で、韓国は日本が放棄すべき領土に独島を含むよう要求したが、アメリカは独島が日本の管轄下にあるとしてこの要求を拒否した。
年対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)で日本がその独立を承認し、すべての権利・権原・請求権を放棄した朝鮮に独島が含まれなかったという事実は米国が記録した公開文書などでも明らかである。
真実:
連合軍最高司令部は日本占領期間中、終始他の特定の命令を下さずに連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号を適用し、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)締結直後、日本政府も当時独島が日本の管轄区域から除外された事実を確認した。SCAPIN第677号は独島を鬱陵島と共に日本の統治対象から除外される地域として規定した。
SCAPIN第677号: 3. この指令の目的から日本と言う場合は日本の四主要島嶼(北海度、本州、九州、四国)と約1千の隣接小島嶼を含むと定義する。 (1千の隣接小島嶼から)… 除かれる地域はⓐ鬱陵島•リアンクル岩(Liancourt Rocks; 独島)… などである。
連合軍が第2次世界大戦後、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されるまで独島を日本から分離、取り扱ったことはカイロ宣言(1943年)及びポツダム宣言(1945年)などにより確立された連合軍の戦後の処理政策を実現したものである。
主張 8
日本の主張: 独島は1952年、在日米軍の爆撃訓練区域に指定され、日本領土として取り扱われたのは明らかである。
日米行政協定に基づいて駐日米軍が使用する爆撃訓練区域の一つとして独島を指定すると同時に外務省にこれを告示した。
真実:
独島で操業中だった韓国住民の被害にもかかわらず、独島を爆撃演習地と指定すると同時に、1952年当時繰り返された独島爆撃などが全て日本の誘導によるものであることは日本の議会での発言内容などを通じて容易にわかる。
次は、1952年5月23日、衆議院外務委員会で島根県出身の山本議員と石原外務次官との発言内容である。
- 山本議員 : 「今回日本の在日米軍演習地の指定問題で独島周辺が演習地として指定されれば、その(独島)領土権が日本のものであることが確認されやすくなるため、外務省では演習地の指定をご希望なさっているのかについてお答え下さい。」
- 石原次官 : 「大体、そうした発想を基にいろいろと進めているようです。」
主張 9
日本の主張: 韓国は独島を不法占拠しており、これに日本は厳しく抗議をしている。
韓国による独島占拠は国際法上何らかの根拠もないまま行われており、韓国が独島で取っている一切の措置も法的な正当性がない。
真実:
日本はこれまで一度も独島に対する領有権を確立したことがない。むしろ日本の主張は独島に対する大韓民国の領有権主権を侵害する一方的かつ不法な行為に過ぎない。日本が独島領有権の確保を意図したのは、1905年の措置によるものであり、大韓民国は既にその前に独島に対する領有権を確立した。
主張 10
日本の主張: 日本は独島領有権に関する問題で国際司法裁判所に付託することを提案しているが、韓国がこれを拒否している。
日本政府は、1954年9月、1962年3月に国際司法裁判所に付託することを提案したが、韓国側がこれを拒否した。
真実:
日本は尖閣諸島や北方四島に対しては国際司法裁判所の付託を拒否しながら、独島についてだけは付託を主張するといった矛盾した態度を見せている。独島は日本帝国主義の朝鮮半島(韓半島)の侵略過程で奪われた後、取り戻した歴史的な島である。独島は明らかに大韓民国の領土であり、裁判所に付託すべき何らの理由もない。