文化

2015.07.06

지구촌 젊은이들이 펼치는 문화소통의 장 '청춘인문 논장판'에서 '음양오행'팀이 조선시대의 의사 허준에 대한 탐구 결과를 발표하고 있다.

世界各国の若者が繰り広げる文化交流イベント「青春人文ノンジャンパン」で、チーム「陰陽五行」が朝鮮時代の医師「ホ・ジュン」について研究した内容を発表している


「人文学」を通じて世界各国の若者が対話と友情を深めた。

文化体育観光省海外文化広報院は2014年に続き、2回目となる人文学交流イベント「青春人文ノンジャンパン」を催した。本選に進出した13チームの中で大賞に輝いたのは、インド、スリランカ、ウズベキスタン、韓国の4カ国の学生で構成されたチーム「陰陽五行」だ。

メンバーは、ユルダセワ・シャフロ(Yuldasheva Shakhlo)さん(ウズベキスタン、慶熙大学貿易学科4年)、キム・ドヒさん(韓国、慶熙大学コンベンション経営学科4年)、スリナド(Wijetunga Chandanashrinath)さん(スリランカ、ソウル大学大学院環境学部造景学博士課程)、スリジャン・クマール(Kumar Srijan)さん(インド、慶熙大学韓国語教育博士課程)、パク・ヒョンソンさん(韓国、高麗大学国際学部4年)のそれぞれ専攻の違う5人だ。

彼らが研究したのは、16世紀の朝鮮時代の医師ホ・ジュン(許浚、Heo Jun、1539~1615)だ。王の主治医だったホ・ジュンは、韓国人に馴染み深い人物で、彼の著書『東医宝鑑』(Dongui Bogam、Mirror of Eastern Medicine、1613年発刊)は、現在も韓国だけでなく、日本や中国でも活用されている漢方医書だ。

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인도, 스리랑카, 우즈베키스탄, 한국 4개국으로 이뤄진 ‘음양오행’ 팀은 드라마 시사회 방식으로 프레젠테이션을 선보였다.

インド、スリランカ、ウズベキスタン、韓国の4カ国の学生で構成されたチーム「陰陽五行」は、「星から来たホ・ジュン」のタイトルで、ドラマ試写会のようにプレゼンテーション形式で発表した


しかし、ホ・ジュンの生涯と『東医宝鑑』の具体的な内容を知る韓国人はそれほど多くない。現代の韓国人にとってわかりにく漢字で執筆されているうえ、叙述形式も易しいものではないからだ。メンバーは3カ月の研究期間、ホ・ジュンと『東医宝鑑』を徹底的に研究した。何回も集まっては調査した内容を互いに発表し合い、議論を重ねてきた。

メンバーは、自国にもホ・ジュンのような事例がないか調べた。ウズベキスタンには、『医学典範(The Canon of Medicine)』を著述したイブン・スィーナー(Avicenna、Abū ʿAlī al-Ḥusayn ibn ʿAbd Allāh ibn Al-Hasan ibn Ali ibn Sīnā、:أبو علي الحسين ابن عبد الله ابن سينا;980~1037)というホ・ジュンのような医師がいた。ウズベキスタン人のシャフロさんと韓国人のパクさんは、自ら標準となる医学書を執筆したイブン・スィーナーと、朝鮮の伝統を継承して中国と朝鮮医学の標準を立てたという意味で書名を『東医宝鑑』にしたホ・ジュンは共通点があると説明した。対照的なのは、ホ・ジュンは儒教的価値に忠実な臣下だったのに対し、イブン・スィーナーは地位や名誉に執着せずに人生を自由に生きたことだ。

한국의 역사인물을 주제로 토론을 한 '청춘인문논장판'에서 대상을 차지한 '음양오행'팀. 스리랑카 출신의 스리나드(Wijetunga Chandanashrinath), 인도 출신의 스리잔꾸마르(Kumar Srijan)(뒷줄 왼쪽부터). 한국출신 박현선, 우즈베키스탄 출신 율다세와 사흘로 (Yuldasheva Shakhlo), 한국출신 김도희(앞줄 왼쪽부터)

韓国の歴史的人物をテーマにした討論会「青春人文ノンジャンパン」で大賞を受賞したチーム「陰陽五行」。スリナドさん(後列左、スリランカ)、スリジャン・クマールさん(後列右、インド)、パク・ヒョンソンさん(前列左、韓国)、ユルダセワ・シャフロさん(前列中央、ウズベキスタン)、キム・ドヒさん(前列右、韓国)


また、「陰陽五行」は、医学だけでなく歴史や哲学、文化、文学など幅広い分野に精通していたホ・ジュンの融合的思考に注目した。キム・ドヒさんは「融合的思考は結局、人文学が基盤となって人への愛情として表れるものだと思う。薄情になりつつある社会の中で、人々が生存できる方法は、競争ではなく、融合と調和、他人との協力であることを悟ってほしい」と語る。

「陰陽五行」は、人間の生命に関わる医療行為が、資本の論理が優先されることで、生命を救うべきはずがむしろ生命を殺す行為に変質しつつあると批判した。メンバーは、ウズベキスタン、インド、スリランカ、韓国の伝統医学について学んだ結果、人間への理解と愛情が前提にあったため、数百年~数千年にわたって脈々と受け継がれてきたことを知り、国境と人種を超えて共通して医師に求められるのは「人文精神」だと結論づけた。

記事:コリアネット ウィ・テックァン記者
写真:コリアネット ウィ・テックァン記者、チョン・ハン記者
whan23@korea.kr

韓国と外国人学生から見たホ・ジュンの魅力

哀れみの精神

朝鮮の庶民は、体調不良で一日横になっていると、その日は食費も薬代も稼ぐことができず、天地神明に祈るか、それがだめなら病に苦しんで死んでいくしかなかった。ホ・ジュンは、こうした民族の苦痛を癒そうと、すぐ手に入る材料や薬草で自家治療できるよう、若い頃から大事にとっておいた診察・治療記録を基に、16年かけて『東医宝鑑』を編纂した。ホ・ジュンが取り上げた症状は約2千種に上り、これを治療するための1,400種の薬物、約4千種の処方、数百種の養生法と鍼灸法が記述されている。その量は実に膨大で、生涯かけても試すことができないほどだ。また、各章ごとに、わずか一つの薬剤で治療できる「単方」が提示されている。こうした内容から、患者を哀れむ気持ちで患者の立場で記述したことがわかる。『東医宝鑑』は、全体的に道教思想に基づいた修養を重視しているが、発病した後の治療よりも日頃の養生を強調したと見ることができる。単に病気を治療するのではなく予防する観点から、患者の心身の状態を把握することで、生活自体を変えようとしたのだ。

エンターテイナーとしての資質

空腹なのに何も食べようとはせず、いつも腹を立て、暴言を吐き、周りの人を殺そうとする女がいた。どんな医師が治療しても効果はなかった。戴人はこれを見て「これは薬では治らない」といい、2人の芸者の顔に役者のように真っ赤な扮装を塗ると、女は大笑いした。翌日にシルム(韓国相撲)をさせると、また大笑いした。そして、大食いの女2人をいつもそばにいさせ、女たちに「美味しい、美味しい」といわせると、女も美味しそうにものを食べるようになった。数日後、腹を立てることは減り、食欲も出てきて、薬を飲まずに病気は治った。後に子どもを一人産んだ。医師はセンスが必要だ。センスのない医師がどうして臨機応変に対応できようか。(『東医宝鑑』内径編より:Naegyeongpyeon primarily deals with physiologic functions and equivalent disorders of internal organs. The interactions of five organs - liver, lungs, kidneys, heart, and spleen - are thoroughly explained.)

ホ・ジュンは万能エンターテイナーとしての資質に恵まれていた。センスとユーモアを兼ね備えているだけでなく、優れた著述家でもあった。ホ・ジュンは患者との双方向のコミュニケーションを重視し、それを基に患者の人生そのものを理解しようと心がけた。彼がコミュニケーションの際にセンスとユーモアを重視したことは、『東医宝鑑』の様々な診療エピソードに記されている。一方、ホ・ジュンは卓越した著述家だった。権威だけを振りかざし、単に病気と処方を羅列しただけの医書は良い医書とはいえない。『東医宝鑑』は、当代の医療文化を垣間見ることのできる様々な民話であふれている。また、著述には首尾相関法や対句法、時調形式など、様々な多様な文化的形式が加味されている。興味深い形式とともに、口述の時代だったため、『東医宝鑑』の内容が庶民に伝わりやすかったのではないかと思われる。さらに、637の郷薬がハングルでわかりやすく表記されているほか、様々な方法で検索できるよう配列されている。古典評論家のコ・ミスクさんによると、病気を通じて処方を知ることができ、処方を通じて病症を知ることができるという多重的な検索手段としての役割を果たしたという。内径‐外形‐雑病‐湯液‐鍼灸で構成され、目次だけで100ページもある『東医宝鑑』にリアルなストーリーを盛り込むことができた最大の理由は、ホ・ジュンが医学と同様に学問を好み、経典と歴史に精通し、優れた文学徒であったことにある。

信念

ホ・ジュンはとても信念の強い人物だった。第一に、『東医宝鑑』からそれがわかる。当時、中国の南・北の医学は整理されて伝わってきたが、彼はそれを朝鮮、つまり東方の医学とは見なしてはいなかった。朝鮮は東方の医学を担うべきだと思った彼は、『東医宝鑑』という野心的なタイトルをつけた。第二に、クァンへ(光海)君が天然痘を患ったとき、他の医官らは治療を拒んだが、ホ・ジュンは敢えてそれに挑み、自身の信念に従って治療を全うした。彼は自身の知識とノウハウに基づいた医術を行い、決して動揺することはなかった。王の病気を治した業績によって官職に就いたことから、周りに敵対する者が多く現れたが、これに屈することなく、医官としての役目を地道に全うした。その後、ソンジョ(宣祖)が亡くなり、69歳にして1年8カ月にわたって流刑に処されたにもかかわらず著述を全うした。これは、信念ではなく執念というべきではないだろうか。