=iclickart(上記の写真は著作権法によって保護されています。無断転載、転用、複製などの二次利用を固く禁じます)
【文=岡本美砂】
1923年9月1日午前11時58分。相模湾を震源とする巨大地震が発生。死者、行方不明者10万5千人に及ぶ未曽有の大惨事となった、関東大震災です。
この時、もう一つの悲劇がありました。9月2日、「朝鮮人が襲ってくる」「朝鮮人が婦女を犯し、井戸に毒を入れた」という流言飛語による朝鮮人虐殺です。戒厳令の下、日本刀や猟銃で武装した自警団が、関東一円で3700も作られたといいます。
神奈川警察署鶴見分署にも2日夕方、自警団員が、「不逞鮮人を連行した」とやってきました。応対にあたったのは、分署長の大川常吉(おおかわつねきち、1877-1940)。自警団員は「持っている瓶に毒が入っている」「豊岡の井戸に毒を入れた」と騒ぎたてました。連行された4人は横浜から東京方面に避難していた中国人で、鶴見停車場近くの豊岡で井戸を見つけ、喉を潤していたところを、自警団員に取り押さえられたのでした。調べてみると、所持していた瓶は、中国ビールと醤油でした。「取り調べをしたが、毒は見当たらなかった」と言っても、自警団員たちは納得しません。大川は「よし、それほど疑うのであれば、諸君の前で飲んで見せよう」と瓶の中身を一気に飲み干しました。その姿をみて、ようやく自警団員は収まり、4人の中国人は警察署に保護されました。
当時はラジオやテレビもなく、首都圏の新聞社もことごとく被災していました。正確な被災状況が把握できず、情報が錯綜する中、事態は更に緊迫。連行された朝鮮人も署内には収まり切れなくなったため、總持寺に一時保護することにします。しかし、土地の有力者までもが「一刻も早く總持寺の鮮人を放逐しろ」「朝鮮人が一団となって蛮行を働くようなことがないよう、一人残らず鶴見から追い出してほしい」と強硬に主張します。収容中の彼らの身柄を手放したら最後、命の保証はありません。朝鮮人というだけで「不逞者」と見られ、迫害されるのを座視するのも忍びないと考えた大川は、「よろしい。諸君がそれほど要求するなら、彼等を放逐しよう。普通の所に手放すのは良くないから、遠方へ送り出すことにしよう」と人々の感情を和らげ、「巡査部長1名、巡査7名で總持寺から鶴見分署まで連れてきて、その上で放逐の手段を講じるから、それまで事故のないようにしてほしい」と懇願し、ようやく人々を納得させました。
總持寺からの移送は無事に済んだものの、その先の移送先が決まらないうちに、警察署を取り囲む民衆は1000人にも膨れ上がりました。「朝鮮人を早く放逐しろ」と激昂、理不尽な要求を突きつける民衆に対し、大川はこう諭します。 「罪なき者を苛なむは蛮行である、我が大和民族の特性は敵人といえども之を憐れむ所に存する、況んや朝鮮人は日本の国民である、陛下の赤子である、根拠なき流言浮説に迷わされて、非道の事があっては、お互いの恥辱だ」。
それでも、横浜が全滅するほどの火災は、朝鮮人の為した業だという流言を信じている民衆は耳を貸そうとしません。このままでは、保護している朝鮮人のみならず、署員全員を危険にさらすことになる‥‥‥。
大川は意を決します。「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ。憚りながら、大川常吉が引き受ける。この大川から先に片づけた上にしろ」と一喝、身を挺して朝鮮人を守ろうとしました。
興奮冷めやらぬ一部の暴徒が「もし、警察が管理できず、朝鮮人が逃げたら、どう責任をとるつもりなのか?」と詰め寄ると、大川はきっぱりと答えました。「その時は切腹して詫びる」。
東京駅前の焼け跡、日本橋方面=気象庁ホームページ
関東大震災に関連した虐殺事件によって、犠牲になった朝鮮人はどれくらいにのぼるのでしょうか? 2008年、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会が発表した報告書によると、当時の政府発表は233人。朝日新聞のまとめでは432人。大正デモクラシーの旗手で政治学者の吉野作造が在日朝鮮人学生らと行った調査では2613人。在日本関東地方罹災同胞慰問班の最終調査報告では、6661人とありますが、正確な数字は分かりません。また、吃音症や地方出身者で発音や方言により朝鮮人に間違えられ、いわれなく殺された日本人や中国人もいました。
9月5日、山本権兵衛首相は内閣告諭を出します。「民衆自らみだりに鮮人に迫害を加ふるがごときことはもとより日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)するのみならず また諸外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず 民衆各自の切に自重を求むる次第なり」。関東戒厳司令部は、自警団や一般市民が許可なく武器や凶器を携帯することを禁止。警察も流言を広げる者を取り締まる方針を示し、震災発生から6日後の9月7日頃ようやく虐殺が終わりました。
こうして、大川署長以下、30名の署員は301名の朝鮮人・中国人を保護、9日横浜港に停泊中の華山丸に身柄を移し、海軍に引き受けられました。そのうち225名は、大川の恩に報いようとその後震災復興に携わったといわれています。
大川常吉は1877年東京に生まれ、1905年巡査として、神奈川県へ赴任します。県内4カ所の警察署を経て1922年に鶴見分署の分署長に就任。1923年末鶴見警察署開署とともに、署長に。その後、大磯警察署、厚木警察署の署長を歴任し、1927年に退任。1940年に亡くなります。63歳の生涯でした。
大川の逸話を聞いた在日コリアン作家の朴慶南(パク・キョンナム)は、1992年、エッセイ『ポッカリ月が出ましたら』で大川を紹介。作品を読んで感銘を受けた韓国ソウルの病院の院長が大川の子孫にぜひ御礼を伝えたいと、朴と大川の孫、豊をソウルに招待しました。 生前の祖父大川常吉を知らない豊は、祖父の行動への賞賛に対して疑問を持ちながらも、温かく迎えてくれた病院スタッフ200名を前にこう挨拶しました。
「当時、日本人が韓国朝鮮の方にあまりにひどいことをしたため、当たり前のことが美談になってしまった。だから私が日本人としてみなさんに申し上げる言葉は、これしかない。ミアナムニダ(ごめんなさい)」。
大川常吉と東漸寺にある大川常吉を称える記念碑=岡本美砂撮影
大川常吉の碑が鶴見区潮田町の東漸寺にあります。関東大震災から30年後の1953年、朝鮮人たちの手により、大川の菩提寺であるこの寺に建てられました。碑には次のように記されています。
「関東大震災当時流言蜚語により激高した一部暴民が、鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時の鶴見警察署長故大川常吉は死を賭してその非を強く戒め、三百余名の生命を救護した事は誠に美徳である。
故私たちはここに故人の冥福を祈りその徳を永久に讚揚する。
一九五三年三月二十一日
在日朝鮮統一民主戦線鶴見委員会」。
後に大川は、当時あのような行動に出たのは自分でも意外で、あれほどの勇気を今になって持ち合わせているだろうかと回想し、「偶々未曽有の震災に遭遇して、素より当然の職責を尽したのみで、特功とは自らも考えないが、容易に得られない経験を得たことを愉快に思う」と語ったそうです。 関東大震災発生から今年で100年。大川の勇気と行動が私たちに問いかけるものは何か、改めて考える好機かもしれません。
*この記事は、日本のKOREA.net名誉記者団が書きました。彼らは、韓国に対して愛情を持って世界の人々に韓国の情報を発信しています。
km137426@korea.kr