矢野秀喜
強制動員問題解決と過去清算のための共同行動
日本政府は2015年にユネスコ世界文化遺産として登録された「明治日本の産業革命遺産(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)」23施設を紹介する「産業遺産情報センター」を6月15日から一般公開している。現在、完全予約制で3回に区切って、1グループ最大5名まで受け入れている。1日につき最大で15名しか見学を受け付けていない。
私は6月30日、午後1時半から約2時間、「産業遺産情報センター」を見学し、特別な「歓迎」を受けた。出迎えてくれたセンターのガイドさんが、「昨夜、あなたのことをネットで見た」と言ってきたのである。センター側は、見学者がどのような人間かを知っており、彼らなりに「事前準備」までしていたのである。その後、センター長の加藤康子氏と元島民(注:「島」とは軍艦島)のガイド2名が付いてきた。それだけではなく、「記録するので」と言って、2名のスタッフが私の傍らでビデオ撮影し始めたのである。私たちに承諾を求めることはなかった。その映像をどのように使用するのかの説明もなかった。こうして、7~8名のスタッフにとり囲まれながら見学をすることになった。私は落ち着かなくなり、ゆっくりと展示を見る余裕もなくなってしまった。
ただ、センター長の加藤氏などは、展示内容や軍艦島とそこの実態について熱心に説明し、「強制労働はなかった」、「みんな仲良く生活していた」などと強調した。
「産業遺産情報センター」は、面積1078平方メートルで、総務省第二庁舎別館1階に設立された。内部は、「ゾーン1:導入展示」(明治日本の産業革命遺産への誘い)、「ゾーン2:メイン展示」(産業国家への軌跡)、「ゾーン3:資料室」の展示構成になっている。
「ゾーン1」では、「明治日本の産業革命遺産」がユネスコ世界遺産に登録されるまでの経緯が年表で示されている。登録に際しての佐藤地ユネスコ大使の発言(「日本は、1940年代にいくつかの施設において、その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの韓半島出身者等がいたこと、第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」、「インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」)も、全文が掲載されている。また、明治日本の産業革命遺産の各構成資産や日本各地の産業遺産について写真や動画で解説している。
「ゾーン2」では、「産業国家への軌跡」をたどるべく、①揺籃の時代、②造船、③製鉄・鉄鋼、④石炭産業、⑤産業国家へ、の5つのコーナーで構成されている。このゾーンでは、加藤氏は熱心に説明をされた。ただ、「明治日本の産業革命遺産」は、シリアル・ノミネーションという方式で、8県にまたがる23資産(3産業分野)が「一括」してユネスコ世界遺産登録されたのであるが、23資産がどう産業史、技術史的に結びついているのかについて、私には理解できなかった。
たとえば、吉田松陰(1830~1859)がおこした「松下村塾」も「産業革命遺産」として登録されたのであるが、この「松下村塾」は、明治維新と明治政府で「殖産興業」「富国強兵」を推進した政治家などを送り出した私塾である。それが何故「産業革命遺産」と位置づけられるのかについて納得できるような説明はされなかった。
また、端島炭鉱や三井三池炭鉱、三菱長崎造船所、八幡製鉄所などに朝鮮人が強制動員され、働かされた。それらの施設では、朝鮮人の動員、労働実態、生活の状況はいかなるものであったのか、全く説明されておらず、等閑視されている。
「ゾーン3」は、同センターをめぐり日韓間で激しい議論をまき起こしている焦点ともいうべきゾーンである。ここは、「軍艦島」をめぐり韓国側から言われている「地獄島」-強制労働、朝鮮人への過酷な処遇、差別などを徹底して否定するために設置されたゾーンと位置づけられていると言っても過言ではない。
このゾーンに入ると、先ず、壁面(1面)いっぱいを使って多くの顔写真(全て元島民)パネルが展示されているのが目に入ってくる。但し、顔写真パネルには名前も生年月日なども付されておらず、証言の一部が紹介されていることもなかった。137名の方から得た証言のうち、70名が軍艦島元島民であった。このうち4名分の証言だけがパネルで展示されている(映像証言も見ることができる)。70名から証言を得ながら、何故4名分の証言パネルしか展示されないのかについての説明はなかった。
私の記憶に残っているのは、「真実の歴史を追求する端島島民の会」の名誉会長を務める松本栄さん(1928年生)の証言。パネルでは「端島において、どこに朝鮮人たちと日本の国内の人たちとの差異があったというのか。(省略)日本は何と腰の弱い外交をやるもんかな」などと証言されている。ただ、松本さんが戦時中に坑内作業に就いていたことではあるが、具体的にどのような仕事をし、朝鮮人労働者とどのような接触をしていたかはパネルでは伺い知ることはできなかった。
また、在日2世の鈴木文雄さん(1933年生)は、「いろいろな方から可愛がられたことはあるけど、指差されて、『あれは朝鮮人ぞ』とか、まったく聞いたことがないですね」また、「おふくろから、『おとうさんは伍長かなにかやけんが、少し給料はよかとよ』ということで。給料をもらいにいっていた記憶があるんですよね」などの証言をされている。ここで、鈴木さんが「可愛がられた」のは彼が幼稚園時代のことであり、これをもって「朝鮮人へのいじめはなかった、差別はなかった」ことを証明できるかは疑問であろう。
そして、鈴木さんのお父さんが「伍長」にまでなったのは、お父さんが既に1920年代末ないし30年代初めには端島に入り、炭鉱夫としての経験を積まれていたからであろう。1939年以降に、労務動員計画で動員され、端島に入った朝鮮人労務者とは異なる経歴の方であったのは間違いない。
軍艦島の元島民から多くの証言、資料を採取・展示したことは評価しうるが、肝心の朝鮮人(韓国人)からの証言がまったく採取されていない。ガイドさんは堂々と「(韓国は)いい加減なんです」「ウソを言うんだから」などと見学者に言っている。元島民が「強制労働はなかった」「差別などなかった」と証言したからといって、強制労働、差別はなかったことにはならない。加害者と傍観者が否定したからといっても、被害者の存在がなくなるわけでもない。被害者の証言が、先行調査、研究の中でいくつも採取されている。それを敢えて採用せず、センター見学者に示さないのは何故なのか、それについて明確な説明が求められる。
また、このゾーンの「売り物」の一つは、台湾人徴用工の鄭新発さん(1924年生)の給料表、給料袋等の現物の展示である。鄭さんは1943年、19歳のときに徴用令で三菱重工長崎造船所に入り、1945年の4月には精勤手当も出ていたという。ただ、鄭さんの展示物によって、軍艦島で働いていた朝鮮人労働者も日本人と同等の給料をもらったということを証明することにはならない。
また、1945年1月から三菱重工長崎造船所で徴用工として働き、同年8月に原爆被爆した後に帰国した韓国人元徴用工・金順吉さんのケースでは、裁判で以下のことが認定された。彼は、45年1、2月の2カ月分の給料116円32銭を支払われたこになっていたが、86円32銭が控除され、だったの30円が支給された。また、7月分の給料は不支給であった。そのことを、長崎地裁の判決は明確に認定した。
結局、展示では日本政府が強制動員政策を施行したことしか分からない。「意思に反して連れて来られた」という事実を証明する資料も確認できなかった。また、強制動員され、働かされた労働者は朝鮮人だけではなく、中国人、連合国捕虜もいた。そのことについて全く説明していない。これではフルヒストリー、各サイトの歴史の「全貌」を説明したことにはならない。これで国際社会との約束を守ったと言えるだろうか。
加藤氏は「月刊Hanadaセレクション」特集記事「徴用工と従軍慰安婦」(2019年1月)で、「歴史は複眼的に見る必要があり、すべての証言を排除せず、両論を併記して議論することが必要です」と主張している。その通りである。では、何故そうしないのか?加藤氏には説明する責任がある。
明治日本の産業革命遺産が「真」のユネスコ世界文化遺産として認められるためには、国際社会との約束を守らなければならない。先ず、朝鮮人被害者を含めた強制労役の被害者全ての証言を採取し、展示すべきであろう。