「人は誰しも自分だけの囲碁を持っている」
囲碁のことをいっているのではない。囲碁の視点から平凡なサラリーマンの日常を描いたウェブトゥーン「未生-まだ生まれていない者」の有名なナレーションだ。
「未生」は、囲碁棋士になるのが夢だった主人公が、サラリーマン生活の中で奮闘しながら困難を乗り越えていくストーリー。リアルな姿が多くの読者の共感を得た。囲碁を人生に喩えたナレーションは特に好評だった。昨年テレビドラマ化され、ラブストーリーやヒーローものでないにもかかわらず高視聴率を記録し、「未生」と主人公「チャン・グレ」は韓国社会の重要なキーワードとなった。
「未生」の原作者のユン・テホさんは、スリラー系の「イキ(苔)」や社会の不正を取り上げた「内部者たち」などで、すでに多くのファンを獲得している。両作品とも映画化され、ヒットした。
先日、独立から朝鮮戦争までを描いた作品「インチョン(仁川)上陸作戦」でプチョン(富川)漫画大賞を受賞したユンさん。自らの人生と作品の世界について話を聞いた。
自分は漫画家になるために生まれてきたと情熱的に語る「未生」の原作者のユンさん
漫画家になろうと思ったきっかけは。
影響を受けたのは、幼少の頃から見て育ったホ・ヨンマン先生の作品だ。でも、ホ先生の作品に出会っていなくても漫画を描いていたと思う。美術大学に行ける状況ではなかったが、絵と落書が好きだったから、自然に漫画家になっていたと思う。
愚問だが、あなたに感動を与えた作家及び作品は。また、その理由は。
田舎育ちなので、漫画に触れる機会はそれほど多くなかった。家にホ先生の漫画が数冊あり、数年間ずっとそればかり読んでいた。ホ先生の画法や演出スタイルなどが好きだった。
あなたの作品はプロの囲碁棋士になれなかった高卒者や離婚で何もかも失った人など、困難にぶち当たる人の物語が多い。その理由は。
漫画は欠点の多い人物像を描いたほうがストーリー展開が面白くなることが多い。私は順調な人生を送ってこなかったので、そんな人たちの世界がよくわからない。苦難の中で成長する人を見ると、多くのアイデアが浮かんでくる。意識的にそうしているわけではないが、境遇と性格が自分によく似ている人の物語を描く傾向があるようだ。
サラリーマンの人生を囲碁に喩え、困難を乗り越えていく姿が読者から好評を得た「未生」
「未生」「イキ(苔)」「仁川上陸作戦」から今連載中の「ファイン」まで、作品のモチーフがバラエティに富んでいる。どこからそんなアイデアが浮かんでくるのか。
「イキ(苔)」は、長いスランプに加えて生活苦にあえいでいたとき、「何か強烈なインパクトのある作品をつくりたい」と思って描き始めた。「未生」は出版社からオファーが来た。「囲碁とサラリーマンの物語を作ってみないか」という提案を受けて始めた。「仁川上陸作戦」は、保守や極右という思想に走る若者への心配がきっかけになった。歴史の本には、韓国独立後から極右思想の若者集団があったと書かれている。彼らが求めていたのは理念ではなく生存欲求だと思った。似たような集団が今もオンラインに存在する。しかし、それは突然生まれたのではなく、以前からずっとあった。彼らについて深く考え、独立した時点から物語を始める必要があると思った。独立も独立後もまともに国の舵取りをとることのできない政府とその中で振り回され犠牲になる民衆に目を向けると、戦争は国家分断という形で終結し、韓国という国は豊かになったが、韓国民は常に分断というトラウマから逃れることができない。韓国のすべての制約と不完全な自由も分断によるものだという思いから「仁川上陸作戦」の制作を決心した。
「ファイン」を制作しようと思ったのは、「父の世代は泥棒も懸命に生きていた」と思ったからだ。外では悪いことをしていても、家では厳格で正しい親の姿でいたのだろうと思った。韓国社会はまだ産業化時代から抜けられないでいると思う。現代の親も、夜も寝ないで働いて子どもの学費を稼いでいる。その子どもが成長すると、また同じようにお金を稼いで子どもを育てる。この世で一番大切なものは結局お金なんだと思った。お金が優先視されるようになったのは、経済開発がもたらした負の遺産だと思う。文化は豊かになってから享受するものではない。暮らしが大変なときは大変なりに文化的な恩恵を享受すべきだ。人間は、暮らし、生存、文化のバランスが適切にとれてこそ正しい人格が形成される。ところが、父の世代はとにかく豊かで強い国を築こうと躍起となり、暮らしを犠牲にし、本を読んだり映画を鑑賞したりする余裕すらないまま生きていた。そんな、お金に振り回されている人々の姿を描いた。
100冊の本を書くのにアイデアは1万個もいらない。自分のロジック・パラダイムさえしっかりしていれば、自分の人生体験の一部を物語にすれば良い。アイデアに執着する創作者はそれほどいない。
「未生」のチャン・グレは多くのサラリーマンが共感する人物だ。「未生」を通じて伝えたかったメッセージとは。
サラリーマン生活の経験がないので、メッセージを伝えようなどと考えたこともない。会社の提案で連載・作品契約を交わしたが、後でとても後悔した。サラリーマンは私よりもはるかに知識が豊富で、私は彼らのことについて何も知らなかった。取材も全然うまくいかなかった。制作期間中、「きっと地獄の苦しみを味わうだろうな」と覚悟した。でも、テーマを設定した後、サラリーマンの暮らしも私たち創作者の暮らしもそれほど大きな違いがないことがわかった。どちらも、仕事のために家と職場を毎日往復し、仕事ができる人になりたいと思って頑張ったり、仕事に追われたりしているからだ。「サラリーマンも創作者も30~40代になればみんな大変な思いをしているなあ」と思った。教訓を与えようとは全く思わなかった。誰かの姿を見て自らを反省するとき、その誰かは何も意識していないように、「漫画を通して自分自身を振り返ってもらおう」と思った。
些細な日常からで重大な歴史まで、取り上げる作品のモチーフの幅がとても広い。頭の中がアイデアでいっぱいなのではないかと思ってしまう。読書による間接経験から、多くの対話も必要だと思う。一つの作品が完成するまで悩みは尽きないと思うが、敢えてネガティブで重いテーマを取り上げようとする理由は。
大学には通わなかったが、もし通っていれば1988年に入学したと思う。その時代を生きていた人々の時代像から抜け出すことはできない。その人々を抜きにしては、民主化過程での政治状況や国際通貨危機、ITの発展など激変する現代を語ることはできない。社会的発言をしようとそうした作品にしたのではなく、成長期に見たものがそれしかないからだ。重いテーマを取り上げようとしているのではなく、それしかアイデアが浮かばないのだ。一種の精神的なトラウマかもしれない。別のテーマを取り上げたら罪の意識を感じてしまう。ハッピーエンドの楽しい物語はどうしてもつくることができない。「こんなことしていいのか」という思いにかられてしまうからだ。若手のウェブトゥーン作家たちのようにはできないと思う。
「仁川上陸作戦」では渡江派と残留派の葛藤がリアルに描かれている。教科書にも載っていない韓国の負の歴史だ。隠したくなるような事実を明らかにすることで伝えたかった教訓とは。
カン・ジュンマン教授の本と国史編纂委員会の年鑑を基に「仁川上陸作戦」を制作した。カン教授のような方の本は、限られた人しか読まないようで不満だった。漫画好きの人、特に若い人に漫画を通じて語りたかった。国史編纂委員会の年鑑を見ると、毎日のように歴史的な出来事が起きていたことがわかる。資料を見ると、渡江派と残留派の葛藤の他にも歴史的に重要な出来事がとても多く、どれを取り上げようかとても悩んだ。歴史教科書もどんな史観で見るかによって大きく違ってくると思う。大変難しいことではあるが、歴史教科書をつくる人たちは責任を持って取り組む必要がある。その意味で、教科書にあまり載っていないような部分を積極的に取り上げようと思った。この作品は漫画だと思って臨んだわけではない。フィクションは事実関係を補完するために用いるツールに過ぎない。作品の中のナレーションと史実を読者に伝えたかった。
これまでホームレス生活など多くの困難を経験してきた中で、忘れられないほど辛かったことは。
正直言ってホームレス生活は大変ではなかった。以前はいつも生活に張りがなく、やる気が出なかったが、結婚して子どもが生まれ、家庭を築き、幸せを感じるようになってからはなかなかアイデアが浮かばなくなった。常にネガティブな状態で創作活動をしていたのが、突然経験したことのないポジティブな感情で満たされるようになると、何をどうしたら良いのかわからなくなった。「イキ(苔)」を手掛けるまでの3~4年間、ずっとスランプに悩まされた。
漫画がメディアの効果・技術と融合すれば新たなコンテンツが生まれると、ウェブトゥーンの可能性について熱く語るユンさん
韓国では漫画がインターネットに進出し、ウェブトゥーンへと発展した。反面、米国はマーブル・コミックといった出版社によって紹介された作品がハリウッド映画として制作され、人気を呼んでいる。ウェブトゥーンの未来をどう考えているか。また、ウェブトゥーンの魅力とは。
紙の本は不便だ。持って歩くのも大変だし、書店で購入するのも面倒だ。しかし、ウェブトゥーンは、コンピュータやスマートフォンでいくらでも読める。コンピュータやスマートフォンは、漫画を読むためだけのツールではなく様々な活用法がある。
また、ウェブトゥーンはフィードバックによって読者の反応がすぐわかる。でも、紙の漫画、例えばコミック雑誌なら、読者の反応を知るには少なくても3カ月はかかる。読者としても、本を買う過程が面倒かもしれない。
そうした観点から、ウェブトゥーンは十分に可能性があり、ますます利便性が高くなっていくと思う。現在のように、ウェブ上で漫画の静止画像を貼り付けするのではなく、あらゆるマルチメディアがすべて融合した形式になりそうだ。映画「アバタ」を思い起こしてほしい。どこまでが映画でどこまでがアニメなのか区別がつかない。そんなふうに融合すると思う。漫画や映像、音響効果などの融合が活発になると思う。メディアを駆使したアイデアが多く取り入れられ、もっと便利になり、単に読むだけの漫画ではなく「興味深いコンテンツ」がつくられるようになると思う。
正直言って、ウェブトゥーンの制作を始めるとき、「自分は漫画を出版するだけ」とは思っていなかった。いくらでも変容できるし、それこそオンライン・コンテンツの魅力だと思う。最大の魅力は国境がないことだ。最近、米ハフィントン・ポストを通じて「イキ(苔)」が米国の人々に読まれている。可能性の扉を開けておくこと、変化を恐れないことが大事だと思う。
漫画家を目指す人に、何よりも大事なことは自身の強みと欠点を把握することだとアドバイスするユンさん
あなたの作品を見ると、漫画家は歴史や社会的背景、人物、政治などあらゆる分野に精通していなければならないと感じる。漫画家になるためには何をどうすべきか。漫画家を目指す人にアドバイスを。
何よりも大事なことは、自分の限界と強みと欠点を把握することだ。それは創作以外のことにも当てはまる。自分をしっかり把握し、強みを生かして欠点を補えばいい。私の強みは、キャラクターに関する年鑑や資料をたくさん作成することだ。漫画家といった創作者は他の人よりも読書する時間がないことが多い。特に連載を持つ作家はそうだ。寝る暇もないぐらいだから。私は2日間寝ていない。こんな人ほど間接経験が不足になる。私は自分の弱点を知っているので、人物研究のためにキャラクターごとに分野を分け、個性と限界を与える。人物ごとに限界と個性を設定すれば、読者は人物に共感するようになる。自分たちも限界にぶつかり、葛藤するからだ。
こうして自分を知れば方法が見えてくる。自分には才能がないと決めつけるのではなく、自分の強みと欠点を把握することが大事だ。そして、自分の得意分野を生かすのだ。そうやって自分を振り返り、把握し、観察するためのツールが人文学だと思う。そうした勉強を怠る人は自分を知ることができない。自分自身を観察する勉強を怠ってはいけない。
漫画の創造力は無尽蔵だ。漫画は社会にどのように貢献できるか。
漫画は絶対なければならないものではない。漫画がないことで人類に被害が及ぶことはないだろう。マクロ的視点から漫画について語ったことはないが、私にとっては一番の得意分野だ。私のささやかな願いは、一生懸命頑張った分、そこから来るやりがいが読者にも伝わってほしいということだ。私のエネルギー、漫画を描くことによって得られる達成感が読者にも別の達成感として伝わってほしい。漫画に限らず、どんな仕事にも当てはまることだろう。私の仕事がそれに貢献できればと願う。
漫画の創造力については、コンテンツの原作となる漫画や純文学といった創作分野への支援政策も重要だと思う。漫画や純文学といった分野は、ゲーム、映画、キャラクター、アニメといった分野に比べ、相対的に収益や売上が少ない。しかし、映画などの分野はそういった原作を土台にしてつくられる。すぐ収益を見込める分野よりも、原作を創作する分野の育成が必要な理由だ。政府が今後、継続的かつ一貫した政策を展開することを願う。 また、市場秩序や制度的な問題など、目に見えない部分についても政府が解決に乗り出してほしい。
これまでの作品の中で最高傑作、または一番愛着のわく作品は。
「ロマンス」だ。2002年に新聞に連載された作品だ。サブタイトルは「老いを忘れる」で、高齢者の物語だ。実は義理の両親のラブストーリーをモチーフにした。
まだ取り上げていないが、ぜひ作品にしてみたいテーマや分野は。
「未生2」の制作以外はまだ何も考えていない。中小企業を背景にしようと思っているが、取材がうまくいくかどうか。また地獄の苦しみを味わうことになりそうだ。アイデアをためておいて創作する人もいるが、私はそういうタイプではない。アイデアが思い浮かんだときに作品をつくるようにしている。
コリアネット ユン・ソジョン記者
写真:チョン・ハン記者、ヌルク・メディア、TvN
arete@korea.kr
昨年ドラマ化され、大ヒットしたウェブトゥーン「未生」(上)。中国や日本、米国、南米諸国など約40カ国に輸出された
父親の謎の死を暴いていくスリラー系漫画「苔」。オンラインで人気を集め、映画化された
韓国独立から朝鮮戦争までの韓国史を描いた「仁川上陸作戦」。今年の富川漫画大賞の受賞作に選ばれた
ユンさん直筆のサイン入りイラスト
コリアネット ユン・ソジョン記者
写真:チョン・ハン記者、ヌルク・メディア、TvN
arete@korea.kr