ひと

2016.10.05

中東平和の土台を築いたイスラエルのシモン・ペレス(1923~2016)前大統領が永遠の眠りについた。
イスラエル建国史の生き証人であり1993年にはイスラエル・パレスチナ間の「オスロ合意」締結の主役となったペレス前大統領が先月28日に死去した。享年93歳。

韓国でも多くのメディアが「オスロ合意の主役、ペレスが死去」(中央日報)、「中東平和を導いたイスラエル建国の父」(ハンギョレ)などのタイトルで彼の死去を大きく取り上げた。

京郷新聞は「イスラエル最後の平和主義者...旅立つ」と題した29日付の記事で「ペレスは半世紀以上、イスラエル政治の中心に立っていた。国内では尊敬される政治家であり、対外的にはパレスチナの自治を約束したオスロ合意を成立させ中東平和の土台を築いた」と評価した。

韓国日報も「中東平和のメッセンジャー、シモン・ペレス他界」と題した記事で「『パレスチナイスラエルの最も近い隣人であり最も親しい友人になることができる』と語っていた彼の信念は中東平和の象徴に他ならない。穏健派と強硬派の仲介者となりイスラエルと中東の平和のために生涯を捧げたペレスの永眠を世界が哀悼した」と伝えた。

京郷新聞は29日の追悼記事でペレス前大統領を「オスロ合意を成立させ、中東平和の土台を作った」人物と評価した

京郷新聞は29日の追悼記事でペレス前大統領を「オスロ合意を成立させ、中東平和の土台を作った」人物と評価した





1923年、ポーランドの古家具屋の息子として生まれたペレスは11歳で家族とともにパレスチナへ移りイスラエルの西部、地中海沿岸のテルアビブに定着した。18歳で労働シオニズム団体の事務局長に選ばれ政治家になる。24歳の1947年にはイスラエルの初代首相であるダヴィド・ベン=グリオンに抜擢、翌年のイスラエル建国時には海軍の首長を務めた。その後米ハーバード大学で修学し帰国してからは出世街道を突き進んだ。彼は12の政権で70年近く働きながら首相2回、外務相3回、国防相を2回歴任した。

外務相だった1993年にイスラエル・パレスチナ間の紛争を仲裁した「オスロ合意」を成立させたことが一番の業績と評価される。オスロ合意はパレスチナの自治とイスラエルの存在を認める原則的な合意で、パレスチナ自治政府発足の契機となった。ペレスはその成果が認められ1994年に当時のイスラエル首相だったイツハク・ラビン、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファート議長とともにノーベル平和賞を受賞した。

ペレスは2007年に大統領に選ばれ2014年に退任してからもユダヤ人とアラブ人の共存を追求する「ペレス平和センター」を運営しながら活動を続けた。さらに若い起業家を企業に紹介したりアドバイスをするなど、スタートアップ育成に取り組んだほか、イスラエルの科学技術の発展にも努力した。

「中東平和の土台を作ったイスラエルの父」と題した29日付の朝鮮日報の記事ではペレス前大統領の死去ニュースとともに彼の業績を紹介した。写真は当時イスラエルの外務相だったペレス前大統領(右)とパレスチナ解放機構のヤーセル・アラファート議長(左)が1994年にノーベル平和賞を共同で受賞したときの様子

「中東平和の土台を作ったイスラエルの父」と題した29日付の朝鮮日報の記事ではペレス前大統領の死去ニュースとともに彼の業績を紹介した。写真は当時イスラエルの外務相だったペレス前大統領(右)とパレスチナ解放機構のヤーセル・アラファート議長(左)が1994年にノーベル平和賞を共同で受賞したときの様子






彼の葬儀は先月30日にイスラエルのエルサレムで行われた。パレスチナ自治政府(PA)のマフムード・アッバース首班、米国のバラク・オバマ大統領とビル・クリントン元大統領、フランスのフランソワ・オランド大統領、イギリスのチャールズ皇太子など世界各国から3千人以上の指導者と使節が参列し追慕の意を表した。

アッバース首班はペレスのことを「平和に向けた勇敢なるパートナー」と称し「彼はオスロ合意の後、恒久平和の実現に向けて息を引き取るまで凄まじい努力を重ねた」と評価した。オバマ大統領も「ネルソン・マンデラに並ぶ、自分が出会った20世紀の偉大な人物の1人。1つの炎が消えた。しかし、彼が私たちに与えた希望は永遠に燃え上がるだろう」と哀悼した。

コリアネット イ・ハナ記者
翻訳:イム・ユジン
hlee10@korea.kr