雪雨山共同体の総括企画者の曺喜夫さん。彼は農耕社会から産業化、情報化社会につながる韓国社会の「圧縮成長」が小さい共同体にも表れていると語る
1945年、植民支配から解放されたばかりの韓国はまた戦争という未曾有の試練に直面した。少数ながら残っていた産業施設は破壊され、極限の貧困にあえいだ。とくに農村地域の苦痛は深刻なものだった。干ばつや洪水による慢性的な飢饉に苦しめられ、増え続ける人口が食べる食料の供給は絶対的に不足していた。それに農村の若者たちは仕事をみつけることができず、日雇い労働者になるか都市の貧民として生きていくはめになった。
食っていけるようにならなければならないという本能、さらには豊かに暮らしたいという韓国人の意志はいつよりも強くなっていた。独立以降に体験した西欧の、とくにアメリカに代表される豊かさは羨望の対象だった。韓国で一番小さい自治体で、陸地で囲まれている内陸地域の忠清北道(チュンチョンブクト)。なかでも一番の僻地として挙げられる槐山郡(クェサンぐん)沼寿面(ソスミョン)の雪雨山(ヌンビサン)村も例外ではなかった。
1968年、アメリカのメリノール宣教会から派遣された神父たちが槐山家畜組合とモデル牧場を造成した。1974年からは韓牛の肉牛、現物の貸し付け、子牛の契約生産といった農民支援事業を展開し、農民教育院を設立して畜産技術と協同組合の教育を実施した。有機農業や有精卵の生産も開始した。村の裏山の雪雨山(標高546m)の下に広がる25万坪の土地には、林野と草地・畑・養鶏場・お菓子工場・キノコ栽培場など様々な施設がある。養鶏場は狭い場所で工場のように鶏を生産する通常のそれとは明らかに違う。広々としたスペースで風通しが良く、温度と湿度を管理するため常に快適な状態を維持する。底に敷いた稲がらが糞と一緒に自然発酵されるため臭うこともない。広いスペースにオスとメスが自然に暮らしながら生んだ有精卵がほとんどだ。生で食べても香ばしく、黄身の色が鮮明で弾力がある。1万羽以上の産卵鶏が一日に8千~9千もの卵を産む。生産された卵は自然食品・オーガニック食品売場にすべて出荷される。卵を原料とするお菓子も全量販売される。ここで農業を学ぼうとする志願者の数は厳しい審査をしなければならないほど多い。生活には活力と意欲が溢れる。こうして50年が過ぎていく間、韓国の農村は貧困や低開発から豊かさと高効率を実現した姿へと変化した。
曺喜夫(チョ・ヒブ、66)さんは雪雨山共同体の初期から現場で努力してきた人物。釜山(プサン)の名門である慶南(キョンナム)高校と韓国の中核人材を生んだソウル大学法科大学を卒業した彼は、若い頃様々な経験を経て農村を選んだ。今年は20代に農村生活を始めてからちょうど40年になる年だ。その彼に会って疾風怒濤を連想させる農村のダイナミックな変化と未来について話を聞いてみた。この小さな農村の現在は、かつて韓国社会が経験した貧困、豊かになるための努力、目標の実現と成長痛を縮小したようである。
雪雨山共同体の養鶏施設。 雪雨山(一番後ろ)の下、25万坪規模の林野に位置している
- 今年4月に円仏教の創始100周年記念セミナーに「生命の大転換」というテーマのパネルとして参加したと聞く。21世紀にどのような転換を迎えるという意味なのか。
ここで生活しながらまず感じるのは、深刻な気候変動ですべての命が生存における困難を経験しているという事実だ。今年は大変暑く、雨は降らないし、梅雨はないに等しい。これでは農業だけでなく生命体全体の脅威になるので何か大きな変化が必要だと考えている。今のままだと人類はもちろん他の動物も危機を迎えることになるというのは、すでに1970年のローマクラブ報告書にも登場した内容だ。理論・談論のレベルを超えて大きな変化が必要な時期になってきていると思う。もう手遅れなのかもしれない。それでもできる限りのことはやるべきだと思う。
- 1989年に「人類が自由・平等・進歩をモットーに汗水垂らして実現した今日の文明世界は、物質の豊かさをもたらした反面、人間を抑圧・疎外させ、さらには人類の生存基盤となる地球の生態秩序を毀損・破壊している……。」というハンサリム宣言が発表された。そこから手にしたものと現在の懸案について説明してもらいたい。
1986年にハンサリムが始まっているから、今年はハンサリム設立30周年となる。農民の数は減り続け、農民の力だけでは韓国の農業を守りぬくことができないという判断から、都市の消費者と連携しようと考えたのがハンサリムの始まりだった。都市の方々には安心して食べられる農産物を供給することにもなる。
そこで日本の事例を調べたり、ここ槐山地域の農産物をハンサリムに提供したり、他地域では失敗に終わったヤマギシ式養鶏法を試してみたり……。そうやってハンサリムのスタートから現在にいたるまで一緒に頑張ってきた。
これまでの成果は国内で安全な農産物、農薬や肥料を控えた農産物を大量に生産して普及を拡大したことにあると思う。一般の人が農業に参加できる道を開いたこともあげられる。ハンサリムの都市組織は協同組合の形になっているので、韓国で消費者協同組合を開拓したとも言えるだろう。
ただ、参加組合で実質的な組合員の参加率は低い。組合員は自発的に参加してお金を出し意思決定もしなければならないのだが、ほとんどは普通の購買者にとどまっているので、こうした部分は改善する必要があると思う。景気が悪いのもハンサリムに少し響いているし…。新しい変化が必要な段階に来ている。
曺さんは、雪雨山共同体は農村の貧困、アメリカ宣教会の支援、東西の共同体営農方式、豊かになるための努力など、多くの状況が影響し合いながら今の形になったと話す
雪雨山共同体はどのように始まったのか。
雪雨山共同体はアメリカのメリノール宣教会のデイビス神父の主導で始まった。貧しく飢える農民たちを見た神父は「肉牛」を導入することにした。牛を育てるにはまず青年たちがその方法を学ぶ必要があるので、体系的・組織的にそれを行うために村に協同組合を設立し、牛や資金は協同組合が支援する形になった。信用協同組合は低金利で営農資金を貸し出し、高い利息で苦しんでいた農民たちに活力を吹き込むことになる。
当時韓国にいた牛はすべて「役牛」、つまり農業を行う牛だったのでそれを食べるという認識がなかった。そのため斑点のあるアメリカ牛を導入して肉牛として育てた。この外国牛を韓牛と交配させ品種改良を行ったりもした。こうして作られた肉牛でソウル市役所前にあるプレジデントホテルでの試食会も開いた。販売につなげることはできなかったのだが。
西洋の神父たちが畜産業を普及させた地域はここだけではない。任実(イムシル、チ・ジョンファン神父)、済州島(チェジュド、イ・シドル牧場)などもある。そちらははるかに規模が大きい。デイビス神父の目的は大きな牧場を作ることよりは農家の人々を教育することにあった。牛はこうやって育てるんですよ、とお手本を見せてあげる感じだった。
その後に開かれた韓日会談の結果で得た日本からの資金により急激な産業化が進められ、若者たちは工場へと離脱した。人手が足りなかったので農業機械が導入され、牛は役牛から肉牛に変わり、牛を育てていた組織・支援組織はハンサリムの肉を加工する工場になった。その50年間で圧縮成長といえるほど大変な変化があった。
雪雨山共同体の養鶏施設。広々としたスペースをオスとメスが自由に歩き回れるように配慮した
- 養鶏法は日本のヤマギシ会の影響を受けたのに、農場の運営方式は全く違う。
ヤマギシ会の農場は共同体の種類ではキブツに分類される。これには私有という概念がない。生産も商品も個人のものでなく、分けるという概念もない。皆が分け合って使うことになっている。またイスラエルに、生産は共同で、消費は個人でするモシャブという方式もある。
山岸巳代蔵(1901~61)さんは陽明学系で、知行合一を主張していた。知識は余り重要ではない。肝心なのは実践だ。日本の共同主義思想を謳い、農業も重視していた偉大な思想家といえる。山岸語録を勉強したこともあるが、大衆化するには無理があると判断して韓国に合った新しい共同体を作ろうと決心した。
世界的にも共同体を成しているのは修道院と、農業共同体としてはアメリカにアーミッシュが残っているし、原始的に暮らす共同体がいくつかあるが、ほとんどがなくなっている。人間とは何か、生命とは何かといった研究もたくさんしなければならないので、国家が革命により取り組んだこともあるがすべて失敗に終わった。人間の本性と合わないのは長続きしないようだ。ヤマギシ会もうまく行かなかった。個人が自由を選ぶことを徹底的に保障した上ですべてを共有するという思想に最初は同意できるかもしれないが、共同体を出て行く人にはそれまでの寄与分を支給しない。だからいかさま集団に見られることもある。
個人の自由、選択の自由を保障しながらも、共有して協力しながら生きていけるのか。非常に難しいことである。釈迦でもイエスでも誰だっていい。人生について深く考えてたくさん悩んだ人の意見に耳を傾けつつ、頑張りながらもそれにこだわったり執着したり埋もれたりせず、常に1歩下がって自分自身を眺める。他人に左右される人生を生きる必要もない。自分に自信があれば他人の視線など気にしなくなる。
(第2部に続く)
対談:コリアネット ウィ・テックァン記者
編集:コリアネット チャン・ヨジョン記者
写真:コリアネット ウィ・テックァン記者、カナン農君学校
翻訳:イム・ユジン
whan23@korea.kr